リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

昨日,id:discourさんのところにトラバした件に関わるんですが,「女性学のブログでもコメント欄ないのがある」というのが,話題のお方だったんですね。なるほど。失礼しました。

ただ,ブログにはいろんな使い方があるだろうし,今は読み手のフィードバックを拒絶している人でも変わることだってありうるかも……って,わたしは思っておこうかな。

ところで,話題の「ジェンダー・フリー」ですが,そもそもの勘違いから,この和製英語が使われるようになったという話はご存じですか? 山口智美さんが,サイトに雑誌に載せた論考を再掲なさってます。http://homepage.mac.com/tomomiyg/gfree1.

以下,抜粋します。

 昨今の日本で、「ジェンダー・フリー」攻撃派は、ジェンダー・フリーを「性差を完全になくそうとする過激な思想」などと触れ回っている。一方、日本の女性学関係者には、ジェンダ−・フリーはジェンダーの呪縛から自由になることだとし、それはアメリカの教育学者が使い始めた言葉であると主張する人がいる。
 だが、私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「〜からの自由」という意味より、英語では「〜がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。

そして,日本におけるこの言葉の発端は……

ジェンダー・フリー」が、日本で最初に使われたのは、3名の学者(深谷和子、田中統治、田村毅)が担当した東京女性財団パンフ「Gender Free」(1995)だったと言われる。

へええ,そうだったんだ。その後,日本では「ジェンダー・フリー」が急速に広まっていったのだが……。

 私は、ヒューストンの原典を読んでみた。そして天地がひっくり返るほど驚いた。彼女は、ジェンダー・フリーは平等教育の達成には不適切なアプローチだと批判し、ジェンダーに敏感になることを意味する「ジェンダー・センシティブ」を薦めていた。これを正しく素直に読む限り、日本語文献によく出てくる「ヒューストン提唱のジェンダー・フリー」は、誤読に基づいていたとしか思えない。 

 仰天した私は、ヒューストンさんご本人に確認した。彼女は、やはり「ジェンダー・フリー」ではなく「ジェンダー・センシティブ」を提唱していた。さらに、日本の学者たちがヒューストンの「ジェンダー・フリー」解釈の一つとする「ジェンダー・バイアスからの自由」については、具体的効果がなく弱すぎる解釈だとして関心を示さなかった。ヒューストンは、男女平等の達成には、具体性を欠いたかけ声だけの「ジェンダー・フリ−」は意味がない、ジェンダーに敏感な具体策をたてることが必須である、こう主張しているのだ。

ホント,これを読んだときには,わたしもぶっ飛んだ。

ただし,勘違いしないでいただきたいのは,わたしは「ジェンダー・フリーの提唱」が求めている状況変革に反対しているわけではない。ただ,山口さんが紹介しているヒューストンさんの意見にあるとおり,戦略的には「ジェンダー・センシティブ」を推進する方が,教育もやりやすくなるし,「変革の行き着く先(性による差別のない社会)」のヴィジョンがより明確になるような気がする。

おまけに,「ジェンダー・フリー」という言葉を使わなくなることで,「男女別のトイレがなくなるぞ」と脅すような,とんでもない勘違いに基づくバッシングをする輩が,少しは減るとは期待されないかしらん?

でも,仮に標語を変えたとしても,行き着く先はすでに見えている気もする。変革派のほうが「ジェンダー・センシティブ」を推進するとなると,保守勢は「ほらみろ,男は男らしく,女は女らしくが一番いいんだ!」と息巻くに決まってるんだろなぁ……。