リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

 ジェンダー・フリーに関連して思うことをまたひとつ。

 子どもが保育園の時とは別の学区の小学校に入ったもので,お友達が増えるようにという配慮もあって,このところ週末になるたび家に同級生の親子を招いていた。娘はこの4月から土曜にインターナショナル・スクールに通い始めたので,日曜にばかり招待していたら,「パパ,いるんでしょう? いいの?」とよく聞かれる。(「パパ,いるんでしょう?」には少なくとも二通りの意味がありそうだ。ひとつは「たまの骨休めの日曜にお邪魔していいの?」であり,もうひとつは「大事な父子で過ごす時間を奪うことにならないの?」だ。)「もちろんいいよ。良かったら,○ちゃんのパパもご一緒にどうぞ」と言うのだけど,パパたちは誰もやってこないし,ママの代わりにパパが子どもを連れてやってくることもない。連れあいはママたちのおしゃべりに多少はつきあうものの,やはりつまらないらしい。(ママたちの会話がジェンダーを超えていないせいかもしれないけれど。)もともとかなり気がつくタチだということもあり,台所に立ってはカップや皿を洗ったりしがちになる。
 そんなうちの連れあいに向けて,決まってママたちの口から「偉いわ〜」「すごい」「うらやましー」「信じられない!」「アメリカ的(!??)」といった讃辞と驚きの言葉の数々が飛び出す。いいよね〜,男は。ちょっとやっただけで誉められるんだから……と,わたしはいつも言う。

 インターナショナル・スクールの見学に行ったとき,わたしがスクール・マネジャーの女性に説明を受けているところに,外国人の男性がお茶を運んできててくれた。「ありがとう」と二人でお茶を飲もうとしたとき,スクール・マネジャーが「あれ,XXちゃんのお父さんなんです」と言った。いくらアットホームなスクールとはいえ,生徒の父親がお茶をいれてくれたことは,少々意外ではあった。でも彼の振る舞いは不自然ではなかったし,わたしのほうも親切な人だとは思ったけれど,決して「偉い」とか「すごい」とは思わなかった。そう思いたくはない,という意識が働いているのを感じる。

 ふだんから当たり前のように家事をしてくれる連れあいに,わたしはとても感謝している。だけど,そのこと自体で彼を「偉い」とは思わないことにしている。たしかに,性による役割分担がしっかりあるこの日本で,ジェンダーを越境して振る舞える「当たり前さ」を身につけたのは,当人の意識や自覚,そしてある種の努力が重要なポイントであることは間違いない。そう考えると,ジェンダー・コンシャスネスが相対的に高いという意味で,当たり前のこととして家事をする男性たちは優れているのだとも言える。でも,それは「家事をするから偉い」というのとは違うのだ。そう捉えてはだめなのだ。そう言ってしまうと,彼らの振る舞いの「当たり前さ」を否定することになり,彼らのなかにかすかに残っているかもしれない「してやってる」意識を育ててしまうのだから。

 本当は,こんなことをしちめんどうくさく考えなければならないこと自体,まだまだジェンダーの呪縛が強い証拠だ。本当は,こんな話をすることもなく,男も女もなく当たり前に親切にしたりされたりで,感謝しあえる社会がいいよね。

ジェンダー・フリー」がまずいのは,男女の二分法の世界で「自分の性の側に割り振られた役割」から脱しようとすると,どうしても「もうひとつの性に割り振られた役割」を身につけることが「奨励」されがちになることだと思う。

 そうではなく,放っておいては刷り込まれてしまう社会の中の「ジェンダー」を意識的に学ぶことを通じて,ジェンダーをunlearn[*]すべきなのだ。それに否応なく影響されている自分(たち)を自覚しなければ,両方のジェンダーを自由に行き来できる術(すべ)を身につけることはできない。となると,やっぱり「ジェンダー・コンシャスネスを高める」ことを目標においたほうがよいだろう。「ジェンダー・フリージェンダーからの解放)」は目標ではなく,結果であるはずだ。

* つい最近,ジェンダー・フリーの文脈ではないのだけれど,スピヴァックがunlearnという言葉を使っていたことを野崎泰伸さん(id:x0000000000)から教えられた。リーダーズ第二版をひくと,「〜の癖を捨て去る,〜の誤りに気づく」といった意味があるようだ。英英辞典(Longman)の説明によれば,「すでに学んでしまったことを,自分が何かをするやり方を変えるために意図的に忘れること」だという。これはジェンダー・フリーを考える上で重要な概念ではないだろうか。