リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

ちょっと試みに考えてみた……。

中絶を女性の人権問題として捉えねばならないのは,不本意な妊娠と出産が第三者や法によって強制されうるものだとした場合,不慮の妊娠に見舞われた女性の人生はひとえに「女に生まれた」という生得的な条件ゆえに非常に広範かつ深遠な制約を受けてしまうためである。

このテーゼを真剣に受けとめようとするなら,「わたしが,わたしの人生を生きるとはどういうことか」ということと,「女にとって妊娠とはどのような経験であり,子どもとは何なのか」ということを考えなければならないのではないか。

「わたしが,わたしの人生を生きる」と言う場合の「わたし」は,一つのまとまりをもった“身体”と,一つのまとまりをもった“意識”(“精神”と言ってもよいだろうか?)とを必要としている。一つの意識を「脳」に還元することも可能かもしれないが,ここで当面,この二つを分けておくのは,身体をもたない“精神”の存在可能性を最初から除外してしまいたくないためである。(このことは単に直感に支えられているだけで,今のところ理由はつけられない。)

また「人生を生きる」と言う場合に想定しているのは,他者との関係があるということである。「わたしの人生」は「他者の人生」がなければ成立しえない。いやむしろ,わたしの人生があり,他者の人生があって,両者の関わり合いがあるところに初めて「わたし」そのものが成立しうるようになるのだと言えよう。

そして「わたし」が妊娠したと認識するとき,「わたし」は「わたしの身体」のなかに,わたしとはまた別の意識をもちうるもうひとつの身体(仮にその時点ではかなり未発達だとしても)が存在していることを知る。逆に言うなら,妊娠を識るとは,わたしの身体の中に,いわば入れ子状になったもうひとつの身体があると認識することである。しかし,わたしの意識のほうは,もうひとつの身体が意識を有しているかどうかを識ることができない。なぜなら,通常,わたしたちが「他者にも意識がある」ことを前提していられるのは,そうした「他者」との関わり合い(それは,他者の振る舞いを観察するだけのこともあるが)を通じて,自分自身と同じような意識の存在を類推しているためだからである。つまり観察不能で,相互的な関わり合いをもてない“それ”に対して――しかも“それ”がまだあまりにも小さく,未発達であることを理解しているような時期においては――意識を有していると想定することは困難である。(仮にわたしとは別の“もうひとつの意識”の存在を想定できたとしても,それがわたしのでっちあげた空想ではないということをわたしは確信できないという意味で,“それ”の他者性は非常に危うい。)

だが上記のように,「もうひとつの身体」としては存在を肯定できるが,「もうひとつの精神」としての存在は肯定しえない“それ”は,借り腹でない限り,文字通りの意味で「わたしの子ども」「わたしの分身」でもある。それは単にひと組の遺伝子をわたしが提供したというだけの意味ではない。そもそも,“それ”の身体を形成する最初の一個の細胞は,わたし自身が提供した卵子なのである。その細胞が成長するためのあらゆる素材は,わたしが提供するものである。精子が運んでくるのは遺伝子情報だけだが,女にとって「わたしの子ども」は文字通り血肉を分けた(わたしの身体内にあった卵細胞からそれが生じ,わたしの血液がそれに栄養を運び,老廃物を除去することで,それを成長させていく)存在なのである。女にとって「わたしの子ども」はまさしく「分身」なのである。

“それ”を孕んだ女が,“それ”と自分との特殊な絆を明示的に,あるいは暗黙的に引き受けてしまっているのは,上記の生物学的な事実のみに基づいているのではない。むしろ「言語」によって構築されている「関係性」によるところが大きい。そもそも人間の女は多かれ少なかれ「母になること」を教わりながら育っている。もはや人間にとって「本能的な母性」は存在しないため,体内に宿った“それ”に対して「母としてのアイデンティティ」を抱くことを,女たちは期待され,教えられ,ときに強制されて育ってきているためである。そのために,妊娠した女たちの多くは善かれ悪しかれ“それ”に対して,ともすれば無意識のうちに,「わたしの赤ちゃん」としての地位を与えてしまいがちである。しかも,多くの場合それは「わたしの赤ちゃん」に留まらず,「わたしと彼の赤ちゃん」になってしまうがために,話はぐっと複雑になる。妊娠している女は“それ”の母としてのアイデンティティと同時に,“それ”の父である男性の恋人もしくは妻としてのアイデンティティ――少なくともその男性と親密な関係にある女としてのアイデンティティ――を抱く。だからこそ,ときにそれは負のアイデンティティとして受け容れがたいものになりうる。たとえば,自らの意志に反した性交によって“それ”が胎内に宿った場合には,“それ”の父が自分にとってのレイピストだということ,すなわち「わたしとレイピストの赤ちゃん」を自分が宿しているということが,彼女をいたく傷つけ,苦しめる。それは,憎むべきレイピストがその妊娠に介在しているがために,「わたし」が「わたしの血肉を分けたわたしの分身」に愛情を注げないためである。あるいは,自分が“それ”の父である男性の恋人もしくは妻であるということが相手の男性の側から否定される時,「わたし」は「自分の分身」が得られなかった愛情の欠如を,自分に対する彼の愛情の欠如と受けとめてしまう。それらの経験は,一種の自己否定でもある。「わたしの分身」が,私自身の,あるいは相手の男性の愛情を得られないためである。

つまり,女にとって自分が宿している「胎児」とは,赤の他人である=自分の分身ではない第三者とは全く位置づけの異なる特殊な存在なのである。“それ”はわたしの身体の内部に入れ子になった身体を有し,わたしの身体内に内接している(外接できず観察も不能である)がために,“それ”の意識が存在しているかどうかを判断する機会すら奪われており,にも関わらず,「愛情を注ぐべし」という規範によって関係が強制されている存在なのである。

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……ん〜,考えているうちに,わけが分からなくなってきたけれども,あとでもう一度ゆっくり考えたいからメモっておこう。

上記,少し直したけれども,まだ納得したわけではない。上記を書いた後になって気づいたことを,以下,思いつくまま記しておく。

まずひとつ。第三者の目からすれば,女の孕んでいる胎児(物理的に不可視である)と,すでに生きているが自分が直接見聞きすることのない他者たちとは,ほとんど区別できないのではないか。

またもうひとつ。身体は目の前にありながらも,コミュニケーションのできない脳死状態の患者について,その人が脳死状態になった以後に初めて出会ったたとえば医療関係者と,その人が脳死になる以前を記憶している家族や友人とでは,その人の“精神的存在性”に関する見解が異なるのは当然ではないか。

さらにひとつ。伝統的に「胎動」が堕胎の是非の境目になっていたのは,胎動を経験することによって,女は目に見ることのできない腹の中の“それ”が,自分自身の身体とは全く別の“意志”をもつ生命存在だとして感じられるようになるためではないか。つまり,「胎児の身体的存在性」ではなく「胎児の精神的存在性」を初めて実感できるのが胎動の経験なのではないか。

上記のように考えると,従来の「(固有の)人間かどうか」という議論は,実は「精神的存在性」の有無を巡る議論に他ならなかったように見えてこないか。

……さて,プロクラスティネーションはこれくらいにして,オフラインに戻ろう。