リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

以下,抜粋・転記しておく。

身体的形態と人間の欲望を言語に移すことは文化的につくられたある種のアイデンティティをそれらに付与することである。それは欲望を間違って表現することでもないし,他のかたちをとって自然の状態で存在することでもなく,わたしたちはわたしたちの裁量にまかされている言語の制約(可能性といってもいい)から逃れられないということである。このように,フーコーの思想が人びとに特権を与え,人びとを解放する力を持っているのは,表現がある意味で人間のリアリティに関する「真実」を「暴露する」のではなく,さまざまな人間の状況と社会的文脈のなかで「真実」についての解釈をつくり出すものであることを伝えている。このように言うことで消えるのは,「正常な」もしくは「真の」セクシュアリティという考え方である。フーコーによれば,セクシュアリティは構築物そのもの,しかも変化する構築物である。【メアリ・エヴァンス著 奥田暁子訳『現代フェミニスト思想入門』1998:123-4.】

中絶権の否定は,女性の自己感覚を不可避的に継続的に堀り崩すような分裂を強いる。彼女の子宮と身体はもはや彼女のものとして想像できなくなる。それらは他者による想像(imagination)に引き渡されてしまっているのであり,そうした想像行為(imagining)は,法という形で彼女の身体を統治することを許されているのである。中絶権の否定における不正は,女性が自分の身体を侵略者としての胎児に引き渡すことを余儀なくされるという点だ,と考えられることが多い〈ちょうどJ.J.トムソンの議論のように〉。だが,私が把握し直してみるに,不正は,決定的に重要な瞬間に,女性をしてその身体を男性の精神に引き渡しつつ,女性を巻きこむという点にあるのだ。【ドゥルシラ・コーネル著,仲正昌樹監訳『イマジナリーな領域』2006:63.】〈 〉内は抜粋者の付記。