リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

 中絶は人類の歴史を通じて行われてきたが,ここ数十年の中絶はますますテクノ社会の色合いを帯びてきた。それは,真空吸引機の導入に見られるように,誘発流産の医療技術が洗練されたなどという表面的な意味に留まらず,我々がテクノ的気風にさらに踏み入ろうとしているというより深い意味でもある。この気風の真髄は,人間は自らの運命の手綱を握っているべきであり,自然の側に利用されるのではなく,むしろ人間が自ら選択し,自然を利用すべきだという考えである。安全で有効でシンプルな産児制限手段の探究は,女性たちのより大きな生殖の自由のためであろうと,人口増加を食い止めるためであろうと,今も進行している。何世紀にも渡って,非公式かつ非合法的に行なわれきた誘発流産は,徐々に公式で合法的な人口制限の一手段に加わろうとしている。この発展を導いてきた要因の大半は必死の思いである。望ましい手段が使えなければ,人々は悲惨な代替手段でも進んで選び取る。これは決して幸福な状況ではない。胎児生命を改善し,保護する道を探ろうとする胎児学と呼ばれる学問領域の登場は,昨今の中絶に対する許容的態度の強まりと平行している。ある意味で,ここには深い矛盾がある。胎児学は発生期の生命の発展を推し進めようとし,中絶はそれを停止させようとするためである。だが別の意味では,両者は同じ目的に向かっている。それは,人間生命の種類と質を制御すると共に,かつて自然に向き合う場面では受動的になる以外にないと思われていたような状況に選択肢を導入するということである。

Daniel Callahan, Abortion: Law, Choice and Morality, 1970, p.506.より抜粋【訳 塚原久美】