リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

新村拓さんの一連の医療史研究には教えられることが多いが,『医療化社会の文化誌』(1997年刊)の記述には,ちょっと引っかかってしまった。1996年の母体保護法が「明治以来続いていた質による人間の選別,障害者差別につながる要素を排除するとともに,他方で中絶の適応要件を厳格にすることによって,今日の出産奨励の動きに合わせようとしたもの」だとして,次のように続けている部分である。

本来,私事であるべき性が今日でも国による規制管理を受け,半ば公事化の様相を呈しているわけだが,これに対して1960年代後半に起こったアメリカでのフェミニズム(女権拡張)運動は,自分の身体でありながらまったく自分の自由にならなかった状態から抜け出ることをめざしたものであった。そこでは産む産まないの選択権を女性の手に取り戻し,一切の管理から離れたいとする主張が展開されている。妊娠および出産をコントロールする自由を得なければ,女性は自己実現を図る上で,男性に比べ不利な状況にあるとする主張は理解できるものである。
 しかし,その先の話となると,同意しがたい部分が多くなってくる。すなわち,胎児は人格をもつものではなく女性の身体の一部にすぎないのであるから,身体を所有し管理する唯一の権利者である女性に胎児についての処分権があるとする。そして,これは基本的人権としてのプライバシーの問題であり,中絶の自由は保障されなければならないと主張する。生をまったくの指示とし,一切の管理を拒否するもので,少し過激に過ぎるようである。
 胎児は人格体ではなく,女性の臓器の一部にすぎないという前提をたてることによって,中絶にともなう罪の意識は解消されるものと考えているようだが……(p.249-50.)

いくつもの疑問が湧いてくる。そもそも,なぜ1990年代の日本の法改正に対する動きとして,1960年代のアメリカの事象が持ち出されているのか。筆者は歴史学者なのに,どうして時代も,地域も違うものを平然とつなげていられるのか。

さらに,「その先の話」も奇妙である。ここで筆者の念頭にあるのは,1980年代から1990年代にかけて日本の生命倫理学で比較的盛んに論じられた欧米のバイオエックスにおける一部の論者(おそらく,日本語に訳されており,日本人生命倫理学者がしきりと引用したがるシンガーとウォレン)の議論(ただし,両者のこの種の議論は1970年代前半に出されたもの)と,1973年にアメリカの最高裁が下したロウ判決(実質的に初期中絶について合法化した)の論理だと思われる。もちろん,フェミニストと言っても一枚岩ではないので,そうした意見の持主が皆無だとは断言できない。しかし,たとえばフェミニスト・グループの公式見解として筆者が挙げるような論理が掲げられた例をわたしは知らないし,少なくとも1990年代の(ましてや日本の)フェミニズムの主流の考え方ではないはずである。

上記の論述が成り立つのは,「フェミニズムの主張は日米ともに1960年代以来同一であり,しかも,プロチョイスを擁護した論理は,すべからくフェミニストの主張である」ことが前提されている場合だろうが,その前提は誤りである。

こうした大雑把な理解(誤解)は,決して筆者のみのものではない。実際には,フェミニストの議論は進化/深化しているが,それ以前に,そもそも仮に筆者が1970年代から女性の中絶権を真っ向から否定するプロライフ・フェミニストも存在していたという事実を知っていたらどうだったろう。上記の議論に続いて,「胎芽・胎児も人間であるとする見方は古来の中国医学・仏教医学の伝統」として日本人の意識を西洋人から差異化しようとする方向には進まなかったかもしれない。それ以上に,「フェミニスト」の名でミソもクソも一緒くたにする態度を見なおしていたかもしれない。

ちなみに「プロチョイス=フェミニスト」ではないことは,女性差別者として多くのフェミニストから嫌われている雑誌プレイボーイの社主ヒュー・ヘフナーが,熱心なプロチョイスであったことからも知れる。(バニーちゃんたちが,自発的に“後始末”してくれたほうが好都合,というわけだ。)また,「プロチョイス=胎児は女性身体の一部という信念の持主」というわけでもない。(ただし,この誤解に関しては,初期のバイオエシックスの中絶論として超有名なジュディス・トムソンの論文が,日本では嘆かわしいほど誤読されてきたこととも関連している。)なのに,フェミニズムに対する偏見のせいもあって,上記のような誤解は非常に根強いようなのだ。(そもそも,「フェミニズム=女権拡張」という認識からして時代錯誤的だと言わざるをえないのだけれども……。)

こうした金太郎飴的な誤解は山ほどある。それをひとつひとつ潰していくモグラ叩きにげんなりしたら,魅力的なthird generation feministsの本でも読むか,逆にアドリエンヌ・リッチの本あたりに立ち返って英気を養うのがいい。どちらも「わたし」を大切にしているから。

未来指向的でいたいよね。