リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

Joan Callahanの Reproduction, ethics, and the law : feminist perspectives (1995)によれば……

倫理に対するフェミニン・アプローチ
(1)it will emphasize the inclusion of women's experience(s)
女性の経験を含めることを強調する
(2)it will focus on care, or some of what have traditionally been considered feminine virtues, in particular, nurturance and compassion, which issue in caring behavior
ケア、もしくは伝統的に女性の徳とみなされてきたもの、特にケアの行動における養育性や共感を重視すること。

倫理に対するフェミニスト・アプローチ
(1)a recognition that women as a group have been and are oppressed
集団としての女性が抑圧されていることの認識がある
(2)an account of the source or sources of that oppression
そうした抑圧の源泉の表現がある
(3)suggestions for how the oppression of women can be overcome
女性の抑圧がいかに克服できるかの指摘がある

ただし,Alison Jaggarは,フェミニスト倫理は非フェミニスト倫理に対する以下の5つの批判を「単に逆さまにしたもの」ではないと主張している。

(1)女性の関心事に対する配慮の欠如,
(2)「女の問題」の軽視,
(3)女性の道徳的主体性の否定,
(4)“女性的”価値の剥奪,
(5)女性の道徳的経験の価値の貶め。
【Tong 1997:52】

 なぜこんなことをわざわざ言ってるかといえば,Jaggarにとって,フェミニスト倫理は「みんなeveryoneの利害」に配慮すべきだからなのだ。女性だけではなくて,ね。おまけにRosemarie Tongも次のように述べている。

フェミニストの倫理へのアプローチは,女性の道徳的関心事に敏感であると同時に,文化的に望ましくないとされるジェンダー――この場合,「女らしいfeminine」あるいは「女性のfemale」とされるジェンダー――の一員であるということが,女性たちの道徳的および人格的,ならびに政治的,経済的,社会的なディスエンパワメントに続いているというその仕組みに敏感であるという点で,非フェミニストの倫理へのアプローチとは異なっている。【Tong 1997:51】

 つまり,フェミニスト倫理学者たちは(女性の)ディスエンパワメントの体験と,その仕組みを熟知しているがゆえに,“ジェンダー以外の”差別にも敏感にならざるをえないのだ。これは「女性の体験」を前面に出すことで,アンドロセントリックな議論を批判していったフェミニン倫理の段階では生じなかった認識かもしれない。実際,上記のJaggarは,「フェミニスト倫理学者は,女性差別のみに留まらず,階級差別エスノセントリズムヘテロセクシズム,健常者優位主義ableismなどの人間の支配と従属の他のパターンの非道徳性も批判すべきだ」【Tong, 1997:49】との信念から,「手頃な保育所がないことや,安全で有効な避妊薬がないといった“女の問題”を非フェミニスト倫理学者たちが,見落としている時,彼らは男性の問題も見落としている」と看破する視点も有している。実際には「出産や育児の慣行と政策は男性にも影響すること」だというのに。【Tong 1997:52】
 この議論に関して,Tongは次のようにまとめている。

フェミニスト倫理学者は,どのようなアプローチを採るにせよ,ニュートラルであろうとはしていない。彼女たちは“女性の”道徳的関心事を検討するし,自分がどこに焦点を合わせているかを進んで認め,自ら批判に身を曝している。自らの本心を明かした個人やグループを批判することは,人間性の乏しさ――固有性や詳細な私事の欠落――によってあらゆる批判を寄せ付けない公平で客観的でニュートラルな見物人を批判するより簡単である。倫理へのアプローチがジェンダー色が強いという事実は,必ずしもそれが性差別的だということを意味しない。倫理へのアプローチが性差別的になるのは,二つの性のいずれかの関心事やアイデンティティや問題や価値を組織的に排除する場合のみであり,フェミニスト倫理学者は,非フェミニスト倫理学者が女性に対して行なっているようなことを,男性に対して行なおうとは全くしていない。【Tong 1997:52】。

 フェミニン倫理の代表格とされるギリガンそのものの議論さえ誤読されている日本で(フェミニスト倫理といえばケアの倫理……というのは大いなる誤解である),フェミニスト倫理はさらに誤解に包まれている。それは分かっているものの,今になってナラティヴ・エシックス普及委員会の議論を読んで(前に読んだときには,わたし自身が混乱していて見落としたわけだけど),「えーーーっ!?」と思ったので,つい,最近ガシャガシャ書いているメモの中から抜き書きしてしまいました。お役に立てればうれしいのですが……(だれかさんへ)。