リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

のざりんさんのサイトに出てた議論を見て,わたしが「議論の前提」だと思うことが,未だにまったく「常識」になってはいないんだよな……ということを痛感させられた。ここに書くようになって2ヵ月半を過ぎたけど,そういえば,ちゃんとわたしの「中絶問題」観を書いたことがなかったような気もする。

そこで簡単に,わたしの問題意識を書いておこう。まず「胎児vs.女性」という枠組みで中絶問題を見ることで,いったい誰の責任が隠蔽されるのかという点に目を向ける必要がある。また,上記の枠組みの中で女性の行為を罪悪視することによって,女性が被害者でもあるという中絶のもうひとつの側面が見えなくなることも問題だ。

わたしが中絶問題をリプロダクティヴ・ヘルスの枠組みのなかで見ているのは,以下の2つの点に目を向けるためである。第一に,リプロダクティヴ・ヘルスは“女性のみ”の問題ではない。男性や社会にも関わる問題でもある。第二に,“女性の”リプロダクティヴ・ヘルスは,上記の問題枠組みによって阻害されている。リプロダクティヴ・ライツという「自由意志をもつ個人」を想定した枠組みでは,これらを捉えきれなくなる。

後者の例をひとつ挙げると,以前の論文に書いたとおり,日本で今も常識的に行なわれている掻爬と呼ばれる中絶手法は,先進諸国では中絶を合法化した何十年も前に手放した方法である。事実,この方法はWHOの「安全な中絶」というパンフレットのなかでは,推奨すべき安全な方法が得られない場合の“代替策”だと位置づけられている。そうした日本の中絶医療環境の実態は,女性のリプロダクティヴ・ヘルスを阻害している。

現にその事実ひとつだけでも,いろんな「問題」を生じさせている。掻爬は胎児が一定程度まで大きくならないとうまく処置ができないこともあり,世界でスタンダードの初期中絶の手法に比べると,どうしても中絶時期が遅れがちになる。そのことが,日本の医療従事者の後ろめたさを強めているとも思われる。その後ろめたさが,処置を受ける女性たちに転嫁されている可能性もある。おまけに,今や精度を増した妊娠検査薬で早速と妊娠を察知し,中絶の意志を固めて医者を訪ねた女性が,「まだ手術できないから2週後に来てください」などと言われて,煩悶の日々が無為に引き延ばされるといったエピソードは決してまれではないのである。

今ここで全面論争することはできないけれど,中絶の倫理を議論するためには,「中絶」や「胎児」というものを観念的に捉えるだけではなく,いったいどういう状況の中で,具体的に何が行なわれているのかをきちんと押さえて議論する必要がある。中絶をタブー視し(そのタブー視の背景で,かなり週数の進んだ胎児の掻爬の視覚的イメージが働いている可能性が高いということも知っておく必要がある),具体的な中身を考えたくないという気持は,わたしにもよく分かる。だけど,少なくとも中絶問題を解決するために議論をしたいのであれば,なぜこれほど多くの中絶が選択されねばならないのかとか,いったいどのような形で中絶が行なわれているのかといった事実を当たることもなく,イメージによって形成された感情論を振り回すことだけは避けたい。それは問題の解決を遠ざける。アメリカの中絶論争の二の舞になりかねないと危惧するからだ。

たしかに「命は大切だ」と,わたしも思う。だがそのことを具体的な状況と文脈,そして何より現時点におけるライフサイエンスの限界のなかで,どうやって実現していくべきなのか。バイオエシックスが問うべきなのは,「命は大切だ」というテーゼの範囲や限界ではなく,むしろ後者の問題のはずである。