リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

Rosalind Pollack Petchesky著 Abortion and Woman's Choice: The State, Sexuality & Reproductive Freedom から抜粋,試訳。
(Northeastern University Press, 1990)

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女性の社会的地位一般が逆境に置かれているような時代に,中絶問題は政治的に活性化する。

p. x
妊娠が女性の身体の中で起こることである限り,女性にとって中絶へのアクセスは,仮に『権利』ではなくとも,必要なものでありつづけるだろう。

p. xi
中絶は,家族,国家,母性,若い女性のセクシュアリティなどの意味そのものが問題になる非常に幅広いイデオロギー闘争の結節点にある問題である。

p. xii
ウェブスター判決における400人を超える歴史専門家が提出した要約によれば,歴史上,胎児が中絶反対運動において何より注目を浴びたことはこれまで一度もなかった。

p. xiii
反中絶派のイデオロギーは,本物の神学というよりは狂信的な信念のオーラを発して,神的なるものと神的ではないもの,無垢なるものと断罪されるべきものを切り分けた。そうすることで,このイデオロギー新保守主義の政府に道徳的正統性の旗印を与え,軍国主義的なその方針を正当化した。

p. xiii
他のどのような社会政策であろうとも,レーガン政権やブッシュ政権に,これほどコストをかけずに「道徳的」な外観を与えることはできなかったに違いない。

p. xv
胎児中心主義fetocentrismに対してフェミニストが反論するには,次の点を主張する必要がある:一部の胎児はある時点で“移植可能”になるとしても,いかなる胎児も現実的には生存可能性を有していないということである。胎児は生物学的に妊娠した女性に依存しており,たいていの場合,出産後も物理的かつ社会的にその女性に依存しつづける。この依存こそ,胎児を暖かく見守る道徳的な義務を彼女に与え,それと同時にその胎児を手元に起き続けるかどうかの決断を下す道徳的な権利を与えることの両方の基礎になる。

p.xvii
AGIの発行した総合的な調査によれば,他の先進国にもアメリカと似たトレンドが見られ,青少年の性行動のレベルも似たようなものだが,アメリカは他のほとんどの先進諸国に比べて,特に10代について,ただし上の年齢層の女性たちについても,「避妊使用率がはるかに低く,出産や中絶,妊娠の比率ははるかに高い」傾向が見られる。

p. xviii
避妊と中絶のサービスが 年齢や婚姻の有無を問うことなく幅広く利用可能であることは,若い白人女性の性行動を目に見えるものにするのに役立ち,それによって歴史的に作られた人種的および階級的な「良家の子女」と「あばずれ娘」のステロタイプは崩れた。中絶クリニックは,結婚や夫権的権威から,そしておそらく男性から独立した性的アイデンティティの存在を体現するものであり,すなわち,ある意味でそれは(白人の)フェミニズムの含みがある。これは物語全体の中で重要な「失われた一こま」であって,中絶クリニックが爆弾や政府規制の標的にされる理由でもあれば,熱心な中絶反対運動家にとって「より有効な避妊」という解決策があまりにも的外れである理由でもある。中絶クリニックは,白人の家父長制が“彼らの”若い女性たちの性的な“純潔”を支配することを脅かす象徴なのであり,だからこそ白人の家父長制主義者の怒りの的にされるのである。

p.xxiv
女性のリプロダクティヴ・フリーダムは,個人のプライヴァシーを求める市民的自由の闘争では,長期的には成功しない。

p.xxv
リベラル派のプライバシーという言葉の中に欠けているのは,ほとんどのヨーロッパの社会主義民主主義ではおなじみの社会的権利という概念である。すなわち,社会は中絶か出産かという選択を困難にしている条件を改善する責務を負っているという考えであり,またこの権利の保有者は孤立した個人ではなく,特定のニーズを抱えた社会的なグループの一員だということである。

p.241
1970年代に登場した中絶問題とは,それが「妊娠の終了」なのか「胎児殺し」なのかという話ではなかった。フェミニストにとっても,アンチフェミニストにとっても,それは結婚や出産よりも教育や仕事を重視し,結婚していなくとも性的にアクティブで,親たちの規範の外に踏み出し,自分と自分の子どもを独立して養い,意識的にフェミニスト的な理念を支持しているという現代的なアイデンティティとしての「解放された女性」のイメージを体現していたのである。

p.264
女性が自分の妊娠をコントロールできれば,彼女が望むときに,望む形で,好きな相手と性関係をもつことに抗する備え付けの制裁装置は消失する――このこと,つまり“自由な(フリー)”セックスが,「プロファミリー」/「プロライフ」の運動にとっては問題の核心なのである。

p.276
中絶や避妊の実行や,性的欲望の表現が,抑圧的な宗教的または法的規範によって完璧に根絶されたことは未だかつてない。

【試訳 塚原久美 2006】