リプロな日記

日本のアボーション(中絶と流産)にまつわる諸問題を研究しています

沖縄のテレビニュースで、「声なき子どもたちの碑」除幕式のニュースが流れたようです。ここを参照。

被害者側からすれば「自分の赤ん坊を殺された」というリアルな感覚があるでしょうし、国の都合で堕胎させられたという“被害”の大きさを強調するためにも、胎児をより“人間化”*1して表現したくなることは理解できる。

しかし、中絶全般について、こうした胎児の人間化を行なうことが常に良いことだとは、わたしには思えない。第一に、自分は産みたかったのに第三者の都合で堕胎させられる場合と、自分が産みたくなくて中絶を選択する場合とでは、中絶処置を受ける当事者と胎児との関係性は全く別物だと考えられるためである。第二に、ハンセンのケースでは、中期以降まで成長し、赤ん坊に近い状態になってからの強制堕胎が少なくなかった。(わたしもそうした標本を全生園で見ている。)赤ん坊同様まで育っている“胎児”と、妊娠のごく初期の“胚”とを全く同様のものだとみなし、共に「声なき子どもたち」として括るのはかなり恣意的であろう。現実にはほとんどの人が、ごく初期の中絶における“胚”(実社会ではこれも「胎児」と呼ばれることが多い)と、出生後の赤ん坊とそっくりなほどまで成長した“胎児”のあいだに何らかの“違い”を感じているように思われる。第三に、そうした“括り”は、圧倒的多数がごく初期の中絶を受けている現在、中絶を“選んだ”女性たちに過剰な自責と罪悪感を与えてしまいかねない。「声なき子どもたち=被害者」という構築は、もう一方に加害者を常に構築するためである。

*1:胎児をどのように表現すべきか――特に誕生後の“赤ん坊”と同等とみなすのか差異あるものとみなすのかについては、海外では大きな論争があり、その文脈でこの言葉を用いています。