リプロな日記

日本のアボーション(中絶と流産)にまつわる諸問題を研究しています

キティ・ジェノヴィーズ事件については、このブログでも以前,次のようにちらりと触れたことがあります。

アメリカではキティ・ジェノヴィーズ事件のあとで,いくつかの州が「善きサマリア人法」を制定した。誰かを救おうとして行なった行為について,その結果がわるい方向に転じたとしても,その善意の人を法的に咎めないという法律だ。

自分ではもっと詳しくキティ・ジェノヴィーズ事件の説明をしたことがあるつもりだったのですが,今,検索すると,見あたりませんね。

キティ・ジェノヴィーズとは、1964年にニューヨークの街角で殺害されたと言われる女性の名であり、当時、30人を超える目撃者がいたのに誰も警察に通報しなかったと報道されたことで、人々に衝撃を与えました。実際には、目撃者の数はもっと少なく、殺人の現場を見ていた者はいなかったとする論文(たとえばこちら)も後に出ていますが、窮地に置かれた被害者を「助けない」方向に集団心理が働く可能性を人々に意識させた出来事だったことは変わりありません。

善きサマリア人法について簡単に説明します。

たとえば,今回のサンダーバード強姦事件なら,犯人と被害者の様子を見て,「もしかしたら,別れ話でもめた恋人同士かもしれないから,プライバシーに介入すると,自分があとで訴えられるぞ……」などと考えて,通報をためらった人がいるとする。善意の萌芽を法がもぎとってしまったことになります。そこで,「暴行事件だと誤まって通報」したとしても,その善意の通報については何ら罪にとがめらないようにすると、法律のほうを変えようというのが、一連の「善きサマリア人法」でした。人々の善意にもとづく行為を妨げているような法的障壁を減らしていこうとしたのです。

注意が必要なのは,日本では「善きサマリア人」というと、どんなレベルの“親切”も一律に捉えられていることです。どちらかといえば“大きな犠牲を払う”のが善きサマリア人だというイメージが強いのではないでしょうか。

「善きサマリア人法」とは、“超人的善きサマリア人”になることを強制する法律ではありません。だから、「暴行現場を目撃しながら、我が身の危険も省みず止めに入らなかった者を罰する」ことはありません。しかし、同様の状況で、「自分自身はさほど大きな自己犠牲を払うことなく被害者を救いうるかもしれない行動を取れる人」には、小さな義務を課していたりするようです。(たとえば、通報義務。)

ジェノヴィーズ事件にも通じる衝撃をもたらした今回の事件ですが、現場に居合わせた人々の中には、後になって事件の詳細を知り、何もしなかった自分に強い良心のとがめを感じている人もいるのではないでしょうか……。しかし、社会はそれに追い打ちをかけるように、たまたまそこに居合わせてしまった少数の人たちの個人的な“倫理”を責めるべきではないのです。そうした現場に居合わせた人々が(いつか居合わせることになるかもしれない私たちが)、心のなかの小さな善意をどうすれば行為に移していけるようになるのか……それを同じ社会で暮している者として、一緒に考え、より良い方向を目指して変えていく必要があるのです。

そうした“変化”のひとつが善きサマリア人法であり、日本でも同様の動きが出てくることを願っています。



(上記、書き直しました。続きは25日に書きます。)