リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

21日のlefteye69さんのコメントに触発されて、21日、22日ともに書き直したので、これで少しは理解しやすくなったかと思います。もともと舌足らずな書き込みだなぁ〜と自分でも思っていたんですけど、今さっき読んだらひどかったですね。すみません。今日も走り書きになりそうなので、怪しいんですけど……。

ジェノヴィーズ事件を経て「善きサマリア人法」が作られたという事実を背景に、トムソンの「善きサマリア人論」が登場します。

Judith Jarvis Thomsonは、有名な論文"A Defense of Abortion"で、普通の人間ならまずできるごく小さな親切を施す最小限の善きサマリア人と、いかなる自己犠牲をも省みない超人的な善きサマリア人とを区別してみせて、「善きサマリア人法」は前者になることを義務づけることはあっても、後者になるよう強制しはしないと指摘します。なぜなら、誰か(たとえば胎児)のために、他の誰か(たとえば女性)が自分の命や人生をすべて投げ打つことを法的に強制されるとしたら、それは一種の奴隷制度となり、万人の平等に反してしまうからです。

身の危険を顧みず強姦犯に立ち向かっていくことを、乗客たちに強制することはできません。(できるのは、彼らの善意が少しでも実を結ぶように、法律だろうと、制度だろうと、その障壁となりそうなものをことごとく撤廃していくことくらいです。)そうしていく責任は、社会の側にあります。

さらにトムソンが優れているのは、その“法”を命じるのは誰か、という点にも目を向けたことです。自分自身は絶対に“超人的な善行を期待されるサマリア人”の立場にはなりえない人々が、そうした立場になりうる他の人々に対して「超人的な善行を成せ」と強制することの非倫理性をトムソンは突いたのです。1970年代始め、女性差別反対の声が世界中を席巻しており、バイオエシックスがようやく羽ばたこうとしていた時代のことでした。

……

時間もないし、話がジェンダーのほうに流れていったので、最後に個人的な感想をば。

新幹線や特急の車両のなかで、振り返ったら自分以外全員が男性だったことが何度かあります。その様子を思い出しても、今回の事件はただひたすら怖い。我が娘が被害者になったら……などと決して想像しないように、慎重に心の片隅から追いやります。被害者の女性の悲痛な心の叫びを思うと、耐え難い思いになります。どうか立ち直ってほしい……と祈るばかりです。