リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

ギリガンの示す「選択のジレンマ」

避妊と中絶によって女性たちに自らの生殖性をコントロールする有効な手段をもたらされることで、選択のジレンマが女性たちの人生の中心に入り込む。そのとき、伝統的に女性のアイデンティティを定義づけ、彼女たちの道徳的判断の枠組みとなってきた人間関係は、もはや女性の生殖能力に起因する必然性から流れ出るものではなくなり、自分自身がコントロールできる決断の問題になる。女性たちは自らを縛っている受動性とセクシュアリティの抑制から解き放たれることで、フロイトと共に女性はいったい何を望んでいるのかと問うことや、その問いに対する自分自身の答えを主張することが可能になる。しかし、仮に自分自身のために選択するということが女性の権利として社会的に認められたとしても、そうした選択を行使することによって、彼女は個人的に女らしさの伝統、特に善と自己犠牲を道徳的に結びつける伝統とのあいだで葛藤状態に陥る。判断や行動の独立性を主張することが、成熟(adulthood)のしるしと見なされ、男性的な発達においては標準的な達成事項とされているのに対し、女性たちは自らの他者に対するケアと関心(concern)という文脈で自身を判断し、〔他人からもそのように〕判断されていると感じている。

Carol Gilligan, In a Different Voice: Women's Conceptions of Self and of Morality(Harvard Educational Review, 47(4), Nov. 1977 初出、Feminist Ethics, ed. by Moira Gatens, 1998:76 所収、訳:塚原久美)

避妊と中絶を可能にした技術が、女性たちのモラルの枠組みに影響を与え、だからこそ女性たちは新たな道徳枠組みを模索せざるをえなくなった……とも言えるのではないか。

生殖コントロールを“自らの手に握った”ということは、そもそものフェミニズムの生起とも大きく関係していると思われる。なぜなら、男女のジェンダーはそもそも生殖機能の差異に基づいているのだから。

しかし、欧米において中絶技術が確立され、中絶が合法化されて50年経った今になっても、中絶問題について、未だにギリガンのいうジレンマから抜け出せない女性が少なくない。避妊は“他者”がほとんど関わってこないが、中絶問題は――とりわけ胎児が実体化された文化的文脈のなかでは――厳然たる“他者”が浮かび上がってくるため、女性たちは自らの権利としての選択と自らの女性性から要請されるケアと関心とのあいだで葛藤状態に陥るためである。

しかし、安全な中絶医療や中絶合法化の歴史の浅さを考えれば、それが何千年にもわたって構築されてきた“女らしさ”の伝統を容易に転覆できないのも、当然のように思われる。

おそらくわたしたちは、まだ“中絶医療”がもたらした衝撃と折り合いをつけつつある途上にあるのだ。