リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

太田典礼『日本産児調節百年史』より抜き書き

個人的な備忘録です。タイプミスなどもあるかと思いますので、引用の際には原典を当たってください。

IV 堕胎法改正運動

 有害避妊器具取締りの弾圧から、突如として堕胎法改正の叫びが上った。日本では初めてのことであった。
 日本の堕胎法は明治十三年(実施十五年)からでキリスト教国フランスの刑法にならったのである、その改正運動はヨーロッパでは自由解放思想にもとづくもので、十九世紀後半から起っているが、日本の自由民権運動にいはまだとり入れられなかった。でも明治三十九年(一九〇六)には刑法学者の勝本勘三郎(京大)が革新的な見解をのべ「堕胎それ自体は禁ずべきでない」としている。
 自由と堕胎、産児制限社会主義は複雑な関係にあり、また人口問題と大きなかかわりをもちながら、いわゆる産児制限運動とは別になっている。産制は妊娠予防をめざすもので堕胎を罪悪視してその解放に反対していた。革新的である筈の社会主義者は、産制には反対であり、堕胎解放にも賛成しなかった。
 明治三十六年の平民新聞は産制主張に反対したが、それが第一次世界大戦後になると、ヨーロッパでは大回転して産制をうけ入れると共に堕胎法改正にも熱心になる。生活防衛のためには公式論に従っておれなくなったからである。医師の法でも中絶の適応症をひろげ、社会的適応症を主張するようになる。もちろんこれには一九一七年(大正六年)のロシア革命の影響が大きい。一九一八年、旧刑法の堕胎罪を撤廃し、二二年の刑法であらためて、医師の中絶を条件付で認めた。
 日本も一九二二年サンガー夫人が来日すると、キリスト教社会主義安部磯雄を始め後に労民党の代議士になった山本宣治や総同盟の松岡駒吉らが参加して大正十四年月刊誌「産児調節詳論」を出したが、堕胎にはまだ反対であった。

1 安部磯雄らの堕胎法改正運動

その安部磯雄がようやく昭和六年堕胎法改正期成会をつくった。これに関する三つの貴重な資料がある……

として、期成会趣意書、期成連盟趣意書、請願が並んでいる。

太田の議論は、時代的制約もあってジェンダーの視点が欠落しているし、社会主義や優生思想を理想化していて、独善的なところも多々見受けられるため要注意ではあるが、いろんな意味で非常に興味深い。