リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

ウーマンリブと中ピ連

産経ニュースのサイトにこんな記事が載っていた。36年前のことになる。

【20世紀のきょう】中ピ連結成(1972・6・14)
2008.6.14 03:33

 「ウーマンリブ運動」が高まりをみせた昭和47年、避妊用に認可されていなかったピル(経口避妊薬)解禁を求める女性団体「中ピ連」(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)が結成された。京大薬学部出身で当時27歳の榎(えのき)美沙子さんが中心となりピル解禁と女性解放を訴えた。

 中ピ連は「女を泣き寝入りさせない会」もつくり、妻を捨てた男性の職場に乗り込むなどしたが、52年、中ピ連を母体にした日本女性党参院選に惨敗。党ともども解散した。

上記サイトでは、当時の榎さんの写真も見ることができる。

中ピ連は日本のマスコミでよく取り上げられたので、日本のウーマンリブの代表であるかのように誤解されているが、秋山洋子さんの著書『リブ私史ノート―女たちの時代から』などを見ると、実のところ中ピ連の活動はリブの中ではかなり異質であったことがわかる。
日本のリブ(ひとつのグループではなく、全国に作られた数多くの小さいグループの総称)のほとんどが、ピル合法化は女性のためにあらずと見て、合法化を主張しなかったためだ。当時の治療用中高用ピルは副作用が強かったことも一因であろうし、男性から避妊責任を免除するばかりとの見方も強かった。

アメリカを初め多くの国々は1960年代から避妊ピルが合法化されていたが、1999年まで、日本は先進国で唯一避妊ピルを合法化していない国だった。この年、バイアグラが“スピード認可”され、あまりの扱いの違いに批判が集中したことで、厚生省はしぶしぶ(山ほど条件を付けて使いにくくした上で)避妊ピルを認可した。

「日本でようやくピル解禁」の知らせに海外からは「日本もようやく避妊薬ミフェプリストン(RU-486)を認めたのか」と誤解されたとのエピソードもある。この初期避妊薬は、1980年代から欧米諸国のみならず、今や発展途上国でも次々と認可されている。

いったい日本は、いつまで「ミフェプリストンを認可していない唯一の先進国」でいるのだろうか?

中ピ連の活動にはいろいろ批判すべきところも多いのだろうが、西欧型のピル解禁運動を当時の日本でくり広げた先進性はもっと評価していいのではないか。榎さんの著書『ピル』(カルチャー出版社、1973、絶版)を読むと、マスコミの揶揄的な取り上げ方とは対照的に、彼女の主張がかなりまともであったことが分かる。

彼女は著書の最後で、こんな主張をしている。

「ピルは副作用があるからやめよう」。こういう考え方こそが、副作用を大きくしているのです。

 避妊や中絶については、なにより「必要にこたえていこう」とする姿勢がたいせつではないでしょうか。
 公害規制法案として有名なアメリカのマスキー法……その提出者のマスキー氏は、記者の質問に答えて次のようにいっています。「現在の技術ではむずかしいから公害規制基準をゆるめろというのは間違いだ。技術というのは、望ましい公害規制基準を実現するためにあるのだ」――と。
 これは避妊法や中絶についても、そっくり当てはまる言葉でしょう。「危険があるからといって、中絶を禁止するのは間違いだ。危険性をなくするためにこそ医学はあるのだ」――と。

実際、ピルの低用量化(エストロゲン含有量の低下)はどんどん進められていた。吾妻堯さんの『リプロダクティブヘルス―グローバルな視点から性の健康をみつめる』によれば、1950年代に開発されたピルは、最初の頃エストロジェン含有量が150μgだったが、1960〜70年には50〜100μgとなり、現在はethinyl estradiolの含有量が30〜35μgに、プロジェスチンも10mgから1.0〜0.5mgに減少したという。(どうやら現在は、使われるホルモン生成物自体が変わったのですね。)

榎さんが引用しているEd Muskieに関する興味深い回想も見つけた。同氏はカトリック信者で、上院議員就任中はプロ・チョイスを支持していなかったが、退任後に態度を変化させ、自分がプロチョイスに反対していたことすら忘れていたという。時代を感じさせられる。