リプロな日記

中絶問題研究家~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

コドモのコドモ

16歳の少女の出産ドラマと、小学5年生の出産ファンタジーが話題を呼んでいる。前者は『JUNO ジュノ』、後者は『コドモのコドモ』である。どちらもまだ見てはいないが、気になる映画ではある。

さっき届いた「ふぇみん」の映画コラムで、『JUNO』と共に、評者ミヤマアキラは次のように紹介していた。

『JUNO』

屈託のないジュノのキャラもさることながら、継母ブレンと親友リアが出色だ。世間の目を気にしたり、主観やエゴを押しつけることなく、ジュノのチョイスを尊重し、具体的なサポートに徹している。ひとびとが描かれながらも、「教師や医師などの専門家は姿を見せず、ジュノと援助者たちによるローカル・ナレッジ(現場の知恵)が生かされている。……この映画に描かれているのはファンタジーではなく、望ましい現実だ。

コドモのコドモ

赤ちゃんを産みたいという春菜のシンプルな直感、真冬の田園の雪景色、子どもたちの美しき団結によって、出産シーンは幻想的に描かれるが、医療へのアクセスなしで小学生が自然分娩を行う危険性は払拭できない。……彼[主人公を妊娠させたいじめられっこの同級生]の内面は一切描かれず、産まれた後にひょっこり顔を出す。春菜の出産に関して誰も葛藤しない。……この作品は、10代の妊娠・出産をシリアスに描いた過去のドラマなどへのアンチテーゼかもしれない。だが、そこに示唆される寓話はあまりに無邪気で非現実的だ。

さらにこの二つを紹介したあとで、ライターはこう締めくくっている。

具体的な課題に直面する者にとって必要なのは、抽象的な理想論や寓話ではなく、課題を解決するための具体的なサポートとロールモデルだ。この作品が寓話にとどまらざるをえなかったのは製作者側の限界ではなく、日本社会の限界なのだろう。

うちの娘は小学一年生のころから「赤ちゃんを産みたい」と言っている。しかし、「それで赤ちゃんが産まれましたとさ、めでたし、めでたし」ですまないことは、大人なら分かっているはずだ。

それにしても気になるのは、この妊娠の発端がいじめられっこの同級生との「くっつけっこ」に起因すると設定されていることだ。子どもたちの性的な行為と心の渇きの関係はしばしば言及されているが、仮にこの映画がその痛ましさを「ほのぼのとした行為」として肯定的に描いているのであれば、この映画の罪は重い。