リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

リプロダクティヴ・ヘルス&ライツの侵害と闘うために

最近、DV問題に関わっている人と知り合ったこともあり、論文をともかくも書き上げた今、これからは産めない選択をした、あるいはせざるをえなかった、もしくは産むことができなかった女性たち、つまり中絶や流産の経験によって独りで苦しんでいる女性たちのために、何かできないだろうかと考え始めている。

ところで、ドメスティック・バイオレンス(DV)という言葉をわたしが知ったのは20年ほど前のことだった。現実には、今でもまだまだ、自分が置かれている状況が人権侵害であるだとか、パートナーの行動が暴力であるということに気づいてすらいないDV被害者も少なくない。しかし、今や法律もでき、DVは暴力であり犯罪だという認識はかなり広まった。その意味で、ずいぶん時代は変わったと言える。

しかし、リプロダクティヴ・ヘルス&ライツの侵害に関しては、まだほとんど“認知”されてもいないのが現実だ。中絶を受けた女性たちのなかには、どれほど苦しんでいようとも、「わたしが悪い」と自分を責め、助けを求められなくなっている人たちがきっといる。「望まない妊娠」「不本意な妊娠」を望む女性などいるわけがないのに。その「望まない状態」「不本意な状態」に陥る前には、望まない(形での……たとえば妊娠の恐れがあると心配しながらの)セックスがあったり、不本意な関係――暴力的な、あるいは暗黙のうちの常識化した「男女のパワー格差」をあらかじめ盛り込み済みの男女関係――があったかもしれないのに。

医療提供者が女性たちを傷つけることもあるだろう。“中絶患者”を感情のある一人の人間として扱うのではなく、機械的に処理を施す対象とすることで非人格化し(一方で胎児を人格化することで彼女ばかりを責め)て彼女の尊厳を傷つけたり、泣いている女性を慰めるどころか、「自分が悪いのでしょ」と言わんばかりの対応をしたり……そんなことが起きているのではないかと懸念される。

仮に医療従事者の側に悪気はなかったとしても、苦渋の決断で中絶を選んだ女性や、流産のためについ昨日までの幸せから奈落の底に突き落とされた女性を、「幸せいっぱいで産もうとしている女性たち」と同じ待合室で待たせること、プライバシー筒抜けの診療室で話を聞いたりすることだけでも、心理的な負担は大きいはずだ。中絶や流産で苦しんでいる女性に、他の女性が産んだ赤ん坊の泣き声やそれを取り巻く人々の笑顔や喜びの声を間近に聞かせるのは、あまりにも残酷だ。

しかし従来、そうした彼女たちの苦悩は、「彼女自身が悪い」ということで看過されてきた。流産についてはまだしも人々が同情的だとはいえ、そちらについても、まだまだ配慮が足りない。しかし中絶に関しては、「彼女が選んだ」ことを理由に、医療も、社会的にも劣悪な状態――リプロダクティヴ・ライツの侵害――が続いている。わたし自身、こうして何年間もリプロダクティヴ・ヘルス&ライツと取り組んできて、ようやくはっきりと「中絶問題」というものが、決して中絶を受ける女性たちが問題なのではなく、彼女たち自身にとっても不本意に他ならない中絶を受けさせている社会の問題だということを自覚できるようになったが、そうした認識さえもてないように何重にも神話や規範や差別意識が働いている。

もしも今、中絶を受けたことで「わたしが悪い」と泣いている女性がいたら、その人に言いたい。けっしてあなたが悪いわけではないのだよ、と。少なくともあなたの悲しみや苦しみの責任の大半は、あなたのパートナーや社会が担うべきものなんだよと。

「やらない善より、やる偽善」……DVの問題で活動している女性が、その先達である女性からもらったという言葉だ。中絶問題、リプロの問題の根は深い。だけど一人でも泣いている女性を減らしていきたい……たとえ他人には偽善と言われようとも、わたしも動いていこう。そのために何ができるのか。考えている。