リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

池田祥子さんの見た「リブ」

片づけ物をしていたら、池田祥子さんの「「子どもを産む」ということ」という文章が出てきた。冒頭はこんな具合。

 地球上の生き物が、どのようなプロセスで雌雄の分裂と合体による有性生殖を「発明」し創造していったのか、生命の誕生のプロセスともども未だわたし達人間にとっては不可解だ。
 しかし、生命は〈性〉を発明し手に入れることによって、限りなく生き延びたいという生命の欲望を現実化し、生命が生き長らえる〈時間〉というものをも顕在化させた。(p.21)
・・・中略・・・
 〈性〉の発明は〈時間〉の発見であると同時に、個体の〈死〉の明確化でもある。生命体は〈性〉を発明して無限という〈時間〉を透視可能にする一方で、個的生命体を〈性と死〉という有言の時間枠の中に閉じ込めたのである。(p.22)

「いのち」そのものは、太古から現在・未来まで脈々とつながっているのであって、生まれ/死ぬのは「個体」でしかないという生命観は、わたしも共有しているので、読んでいてわくわくしました。また、小6の娘の国語の教科書に出てくる日野原重明さんの文章のなかに、「きみたちのいのちとは、きみたちが使える時間なんだよ」と子どもたちに教えるという話が出てくるのを思い出し、興味深かったです。

ちなみに上記の池田さんの文章は『[女][母]それぞれの神話――子産み・子育て・家族の場から』(明石書店 1990)に収められています。残念ながら絶版ですが。

ただし次の部分・・・

 生命体は、自らと同一なるものと異なるものに対して本来的に敏感であるという。自らと異なるものに対しては自らを閉ざし抵抗し排斥しようとする。これまた自己保存の「本能」なのかもしれない。しかし〈性〉を異にするものに対してのみ、生命体はこの「本能」を裏切る。人間の卵細胞も、受精の際には自ら細胞膜を溶かし精子の侵入を助けるという。(p.21)

これについては、もうひとつの「例外」を忘れちゃいけない。妊娠した女性の身体が本来自分にとって「異物」である受胎生成物を「排除」しないで出産するまで懐胎し続けられるように、自らホルモンを発していわば母体へと自己改造することです。その働きをうまく調節できないと、異物を排除しようとする働きと衝突し、「つわり」が起きるのだと聞いたことがあります。

もうひとつ思ったのは、上述の本能を裏切る「生命体」というのを、惹かれあう男女のこと・・・なぁんてレベルに押し広げてしまっては、エセ生物学者の書き物みたいな話になるということ。ヘテロ中心主義と読まれることが本意でないことは、著者の講演緑にみられる「自戒」からも分かります。

それから男と女といつも括ってしまうんだけれど、それもまた一つの社会通念、私なんかも批判されたんですけれど、ヘテロというセクシュアリティが全部じゃないですよって。
 社会のなかでそうではない人間だってたくさんいるので、女と女、男と男の関わりのセクシャリティの問題、それを今までの女の問題はネグレクトしてきてしまっているという問題もあります。「70年ウーマンリブからの糾弾とフェミニズム運動

この講演録に出てくる学生運動の中での「多数決」への違和感の話にも、とても共感しました。池田さんは自分がリブに入らなかったのは、たまたまその頃に出産して子育てしていたからだと書いているけど、もしかしたらどこかでリブとして括られる一定の様式(と見えてしまうもの)に違和感を覚えていたところもあったんじゃないかな、と感じました。(子持ちでリブをしていた人もいっぱいいますし。)

たまたま最近、リブ世代でリブをしていなかった人の話を見聞きすることが、何度かありました。わたしはリブに憧れていた自称「遅れてきた世代」だったけど、もし、実際にあの時代に生きていたら、わたしは相当にリブに共感しながらも、意外と別のことをしていたのかもしれないな・・・。