リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

「ミソジニー」って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?  それは単なる「女性嫌悪」なのか

現代ビジネス 2020年2月9日

「ミソジニー」って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?(江原 由美子) | 現代ビジネス | 講談社(6/6)

わかりやすい!!! ケイト・マンの大著『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』を見事に解説!

江原 由美子横浜国立大学教授
 「ミソジニー」という言葉をSNSなどで目にする機会が増えた。が、厳密にはどういう意味の言葉なのだろうか。江原由美子氏が『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』(慶應義塾大学出版会)をもとに解説する。


ミソジニーがわからなかった

 「ミソジニー」という言葉がある。「女性嫌悪」「女性蔑視」などと訳されたりする。女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のことだという。男性が女性に対して持つだけでなく、女性が同性に対して持つこともあると言われる。

 よくフェミニズムで使われるという解説もあるが、私は、フェミニストであると自認しているにもかかわらず、これまでこの言葉を使ってはこなかった。

 なぜ使わなかったかというと、素直に分からなかったからだ。この言葉を使うことで何か明らかにできると感じたことは一度もなかった。その言葉に、何かを明らかにしてくれる分析力を感じるよりもむしろ、来歴も機能もおそらく異なるはずの様々な現象を、一緒くたにしてしまう気持ちの悪さを、感じていた。

 DVも、セクハラも、女性政治家の少なさも、会議での女性の発言権の少なさも、「ミソジニー」ゆえだと言われたとしても、「それはそうかもしれないが、ではそれは『男性支配』とか『性差別』という言葉とどう違うのか」という疑問に、即座に直面するだけのことだったからだ。

 けれども、今回、『ひれ伏せ、女たち ミソジニーの論理』(ケイト・マン著、小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019年11月刊)を読んで、この言葉に対する評価を大きく変えた。もし私たちが、著者(=ケイト・マン。以下同様)が言うような意味において「ミソジニー」という言葉を使用するならば、この言葉は、私たちの社会に広く行きわたっている現象を明らかにするうえで、かなり有効性があるのではないかと考えるようになった。


ミソジニーによる犯罪」?

 ミソジニーは普通、「女性全般もしくは一般を、女性であるというそのジェンダーゆえに嫌悪するといった傾向を有する」個人の属性であると理解されている。しかし著者によれば、こうした「素朴理解」は、ミソジニーを、「事実上存在しないもの」「不可解なもの」にしてしまうという。

 例えば、「女の子の誰一人として僕に振り向いてくれなかったから、大学の女子学生を無差別に殺した」というような事件があったとする。このような事件は、犯人自身とはまったく関係ない女性たちを、彼女たちが女性であるという理由で殺害したという意味において、ミソジニーという概念にもっとも適合しているように思える。

 しかし、その事件に対して、フェミニストが「ミソジニーによる犯罪」などのコメントをすると、そのコメントに対して、「犯人は心の底では女性を憎んではいなかった。むしろ女性を望む欲望が過大だったから、女性からの拒絶が身に応えたのだ。つまりは女性を憎んでいるというよりも欲していたのだから、ミソジニーによる犯罪ではない」とか、「犯人は女性全般を憎んでいたのではなく、自分が彼女に対して性的魅力を感じているにもかかわらず、彼を無視した若い女性に限って憎んでいたのだから、ミソジニーではない」などの、批判がなされることが多いという。

 先述したように、ミソジニーの「素朴理解」では、基本要素として、「女性全般あるいは一般に対する嫌悪」の存在が、必要だからだ。

 しかし、女性に嫌悪以外の何の関心も持たない人、あるいはすべての女性を同じように憎むという人が、一体どこにいるだろうか。著者は、そのような「素朴理解」的なミソジニー傾向を持つ人は稀有であろうと推測する。それゆえ「素朴理解は、絶望的に不適切であると考えざるをえない」と結論付ける。つまり、ミソジニーの「素朴理解」にとどまる限り、ミソジニーは、「事実上存在しないもの」「不可解なもの」にならざるを得ないのだと。


「女性の隷属」を維持するもの

 そこから著者は、ミソジニーを、「素朴理解」ではなく、「家父長制秩序を支える機能をもつ」「人を支配するためのシステムの一形態」として理解するべきだと主張する。

 著者によれば、家父長制とは、社会や時代によってさまざまに異なった制度であるものの、「女性という女性、またはほとんどの女性を、その内部の特定の男性あるいは男性たちとの関係において隷属的な立場に置く」ような制度であるという。

 特定の男性(例えば父や夫)との関係において隷属的な立場に置かれるにすぎない場合でも、女性は男性に対して不利な立場におかれるので、その社会で男性は女性よりも優位な地位を占めるようになる。このような家父長制秩序を支える社会統制機能こそ、ミソジニーの機能であり、それは家父長制という女性を支配するシステムの重要な構成要素なのだと、著者は言う。

 この概念変更の利点は、まず、先に挙げた無差別殺人のような例を、ミソジニーの典型例として解釈可能にすることである。概念変更によって、ミソジニーは、すべての女性に対する一律的な嫌悪や蔑視の反応である必要がなくなる。

 変更後の概念では、ミソジニーは、家父長制秩序を維持する機能を持つ制裁行為として位置付けられる。つまり、家父長制に抵抗する女性やそこから逸脱しようとする女性に対するネガティブな制裁行為(いわゆるムチ)こそが、ミソジニーだということになる。

 しかし定義上、ミソジニーはネガティブな制裁だけでなくポジティブな評価(いわゆるアメ)も含むことになる。家父長制秩序に従っている女性たちを殊更に称賛したり優遇したりするポジティブな評価は、そうしない女性たちに対するネガティブな評価に、容易に反転するからである。つまり、ミソジニーを著者のように定義すれば、「素朴理解」の場合のように女性全般に対する同じ反応であることを、要件とはしなくなる。

 また、同様に、個人の心理の中に「嫌悪」という心理的傾向が存在することも、要件ではなくなる。家父長制に従っている女性に対して、好意を寄せたり、称賛したりすることも、ミソジニーとして解釈できるのだから、「嫌悪」以外の心理的傾向を持つ行為者の行為にも適用できるだけでなく、いかなる感情を持つこともなくなされる行為であっても、制裁として機能する行為であれば、ミソジニーとして解釈できる。

 ミソジニーをこのように定義すれば、先ほど挙げた「女の子の誰一人として僕に振り向いてくれなかったから、大学の女子学生を無差別に殺した」といった事件の例に対して、「犯人は女性に対して嫌悪感だけでなく性的魅力も感じていたのだからミソジニーではない」という批判も、「自分を無視した若い女性だけを憎んだのだから、ミソジニーではない」という批判も、成り立たなくなる。

 詳しくは後述するが、つまりこうした事件は、「家父長制秩序の下にあれば、男性に付き従うべき女性が、男性である自分になびかなかった」という理由で殺人を犯した事件と位置付けることができ、ミソジニーの典型例として解釈することが、できるようになるのである。


男性が女性から「奉仕」を引き出す

 ではそのことで、どのような認識利得があるのか? 著者の家父長制秩序理解において重要なのは、その秩序の維持の目的を、男性が女性から何等かの「奉仕」を引き出すことにあるとしていることである。

 「女性の隷属」の目的は、男性が女性から何らかの「奉仕」を引き出すことにあり、女性を男性から完全に隔離したり虐殺したりすることを、目的としているわけではない。つまり「女性の隷属」とは、特定の男性あるいは男性たちに、「女性から何らかの奉仕を受ける」特権を付与していることとうらはらの関係にあるのだ。

 無論、個々の男性が、すべての女性からあらゆる奉仕を受けられる「特権」を持っているわけではない。社会により時代により「特権」の内容は異なるし、同じ社会、同じ時代でも、求めているものが、家事労働なのか、気づかいなのか、尊敬なのか、性的満足なのかによって、どの女性に求めることができるかは異なっている。

 尊敬や気遣いであれば、職場の女性や女友達にも求められるだろう。でも食事の準備や日常的世話であるならば、家族の女性にしか求められないことが多い。性的満足であれば、多くの社会において、妻や恋人等特定の女性からしか受けられないと規定されている。

 しかし、その内容が様々であったとしても、家父長制秩序は、男女に非対称な道徳的援助関係を規定する。例えば現代アメリカにおいても、「中流異性愛・健常者男性」は、女性から養育・慰安・世話と、性・感情・生殖に関わる労働奉仕を受けられることを当てにする権利があると、暗黙に見なされている。ミソジニーは、このような男性が女性を利用することに関わっている。

 家父長制秩序の下では、男性は、「自分は、女性から何等かの『奉仕』を受ける『特権』がある。だから『奉仕』しようとしない女性に対しては、罰を与える正当な権利を持っている」という無意識の規範意識を、もちがちになるのである。この「無意識の特権意識」に基づく、家父長制秩序に従わない女性に対する「処罰」行為こそが、ミソジニーだと、著者は言う。

 繰り返しになるが、先に挙げた事件がミソジニーの典型例なのは、犯人の男性が、「女性は自分の性的欲望に応える義務があるのに、不当にも誰もその義務に応えようとしなかった。だからそういう女性たちは罰を与えられても当然なのだ」と考えていたと推測されるからである。


メディア上での「ミソジニー

 しかし、著者が主な分析対象としている社会現象は、この例のような凶悪な犯罪行為ではない。

 著書の中では、2016年のアメリカ大統領選挙におけるヒラリー・クリントンに関するメディア報道や、オーストラリア首相であったジュリア・ギラードに関する報道が何度も言及されており、そこから著者の主要な問題意識がどこにあるかを、見て取ることができる。

 彼女たちは国のトップに立った、あるいはそこを目指した政治家であった。それはつまり、家父長制秩序においては、女性として男性に与えるべきとされている称賛や尊敬、援助・気遣いなどを、男性に与えないだけではなく、逆に、女性である自分自身に与えるように、要求することであった。

 だからこそ、彼女らは、「強欲である」とか「ずるがしこい」等の、同じことをしている男性候補者には決してなされない非難を、男女の選挙民から、大量に受けることになったのだと、著者は分析する。

 著者は、このような、女性に関わるメディア報道、特に主要に女性に関わる政策に関する政治的報道や、女性政治家に関する報道の在り方に見られるミソジニーにこそ、強い関心を持っているのだ。

 フェミニズム運動や文化的変革がなされ、アファーマティブ・アクションなどの制度的変革が起きた現代のアメリカ合衆国やオーストラリアでさえ、女性に関わる政治現象の中には、ミソジニーが根深く潜んでいる。

 ミソジニーの分析に向かう著者の問題意識は、我々の社会の根底に潜む「性別によって非対称的な道徳的評価」を表にえぐり出すことによって、これだけの制度変革を経ても実現しがたいジェンダー平等の実現を目指すことにこそ、あるに違いない。

 最後に、評者自身のこれまでの仕事との関連を書いておく。著者であるケイト・マンの理論的立場は、私自身の著作である『ジェンダー秩序』(2001年、勁草書房)におけるそれと似通っており、大変驚いた。その意味で本書のミソジニー概念を『ジェンダー秩序』で論じたことと、統合的に位置付けうる可能性は非常に高い。今後、検討してみたい。

ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理