3月4日の朝日新聞の投稿欄に、「子供を持たない選択 おかしいか」という投稿に対して様々な意見が寄せられていた。そういう選択もありうると肯定する意見がほとんどだったが、それ自体、「子供を持つのが当たり前」が常識になっていることを反映している。
日本の新聞に、「子供を持つ選択 おかしいか」という投書が掲載され、話題になることはまず考えられない。
図書館の棚を眺めても、『わたしが子どもをもたない理由(わけ)』(下重暁子著)、『「子供を産まない」という選択』(衿野未矢著)『誰も教えてくれなかった 子どものいない人生の歩き方』(くどうみやこ」著)など、産まない選択をテーマにしている本はすぐに見つかる。
ただしこの3冊には、中絶によって子どもを産まなかった人は一人も登場しない。
本当はいろんな出産があるのと同様に、いろんな中絶があるはずなのに……。そしていろんな中絶を知ることで、その底に流れている共通の問題が見えて来るはずなのに……。
図書館で、「子供を持つ選択」やその理由を述べた本は、もちろん一冊も見当たらなかった。
小説のなかでも、産む選択は良いこと、中絶は良くないものとされるのが常である。一つの作品の中で対比的に描かれることも少なくない。
明るい陽射しがあればこそ、闇が深まるという創作のテクニックなのかもしれない。そうだとしても、中絶がとても悲惨なもの、おぞましいものとして描かれるのに対し、産む選択の方はあまりに安易に、能天気に、そしていかにも幸せなように描かれているところまでパターン化しているような気がする。
『インターセックス』(帚木蓬生著)と『デザイナーベイビー』(岡井崇著)は、どちらも最先端の産婦人科医療の闇を描いた作品だが、どちらにも予定外の妊娠をした女性たちが登場し、どちらもさほど悩むこともなく「産む」ことを決意する。昨日DVDを借りてきて観た『八日目の蝉』(原作角田光代著)にも、産む決断をする女性が出てくる。
最後の作品は母性をテーマとしているので、まあ仕方ないのかもしれないけれど、男性作家の二つの作品に出てくる女性たちは、「選択した」というよりも、「受け入れた」という感じが濃厚で、ちょっと気になる。
「それが当然」と社会の価値観に従ってなんとなく受け入れてしまったことは、後になって自分に跳ね返ってくることがあるからだ。
なんとなく世間に合わせて…とか、そんなものだから仕方ない…と、立ち止まって考えることなくどんどん「受け入れて」いくと、あとでツケが回ってくることがある……というのは、わたし自身が学んだことだから。
ただし、自分で「選択」しても、その後の人生が思い通りになるわけではないし、結局、また別の選択をしながら生きていくしかないんだけどね。