リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

世界のリプロ:女性運動の先人たち

『人口の法』を書いたアニー・ベサント

Annie Besant(1847-1933)
作家、マルサス主義の活動家、アイルランド/インド独立運動支持者。
 聖職者の夫とのあいだに2人の子どもをもったが、宗教観や社会問題に対する立場の違いのために別居。夫が離婚を認めなかったため生涯ベサント夫人として過ごした。
 「男も生計を立てるのが困難だが、女にとっては10倍困難。半ば不公正な法のため、半ば社会の過酷さのために、女たちは雇用から締め出されている。」
 「鉛工場で働く女はめったに健康なこどもには恵まれない。多くが5~7カ月で流産し、生まれても長く生きな伸びられる子供はめったにいない。」
 また貧しい女性はお産の1~2日後には働きに行かねばならないため、子宮の戻りが悪くなり、生涯虚弱に陥ることもあると、医者の証言をもとに綴っている。
 さらには、「女性たちは、女として正常な状態に時間をかけて回復していく最中には、性的なめんどうごとから完全に休息できる絶対的な権利を有している」とも述べている。
 「禁欲は男にとっても女にもとっても不自然だ」として、道徳的抑制よりも避妊の方を勧めている。ただし、「月経の直前と直後は妊娠しやすく、そのあいだは妊娠しにくい」と全くもって間違ったリズム法を紹介している他、亜鉛又はアルミニウムの硫酸塩の溶液を注入するなどの避妊方法の記述もあり、当時の女性たちが頼っていた方法の一端を垣間見ることができる。
 当時の知識人の例にもれず、優生思想の持ち主だが、アイルランド系の血を引いているためか、後年はアイルランドとインドの独立運動に尽力した。
The Law of Population: Its Consequences, and Its Bearing upon Human Conduct and Morals - Wikisource, the free online library

オランダ初の女性医師で活動家に転身した アレッタ・H・ジェイコブズ

Aletta H. Jacobs (1854-1929)
 オランダで公式に大学で博士号(医学)を受けた初の女性で国内初の女性医師に。医療の傍ら、貧しい女性たちに衛生を守ることを教えていたが、1882年に世界初のバースコントロール・クリニックを開いた。ドイツからダイアフラム(ペッサリー)を輸入して貧しい女性たちに無料で配布したといわれる。

 1889年『女の関心事:3つの現代的な問題』という本を書き、女性たちに経済的自立や自発的家族計画を説いた他、売春婦が男たちの横暴や性病に悩まされている問題を解決するために売春の制度化を求めた。
 1899年にロンドンで開かれた国際女性評議会をきっかけに医者をやめて活動家になり、第一次世界大戦終了後の1915年にハーグで国際女性会議を開き、のちに婦人国際平和自由連盟(WILPF)が作られる素地を築いた。1919年に女性参政権を説くために16ヵ月もの世界ツアーを行い、日本も訪れている。

マーガレット・サンガー

Margaret Sanger (1879-1966)
 コムストック法で「わいせつ物」の配布が禁止されていたアメリカで、1914年に『ファミリー・リミテーション』を書いてすぐに、起訴を逃れるためにイギリスにわたり、マリー・ストープスと知り合った。
 1916年にニューヨークで世界初のバースコントロール・クリニックを開設したが、おとり捜査でもぐりこんだ女性警官に避妊方法を書いたパンフレットを押さえられ逮捕されて、警察によってクリニックは閉所される。
 ロンドンの貧しい地域で看護師をしていたサンガーは、貧困と多産、高い周産期死亡率(子も母も)、違法中絶による死を目の当たりにして、すべての女性は望まない妊娠を回避する権利があるとの信念を固めた。
 1911年、サンガーはニューヨーク・コール紙に女性のセクシュアリティに関するコラムを書き、人気を博した。
 サンガーは1912年に看護師を辞め、避妊と性教育に専念することにした。1914年、サンガーの発行した『ウーマン・リベル(女性の抵抗)』誌の5つの号がわいせつ物の郵送を取り締まるコムストック法違反とされ、起訴されたが、裁判を続けるとかえって人々の目が集まると判断した判事たちは1916年に訴えを取り下げた。
 サンガーは1917年に「バース・コントロール・レビュー」誌を発刊。
 その後、ニューヨークに滞在していた加藤(石本)シヅエと出会う。(加藤は1921年に日本に戻って産児制限を教えるようになり、1922年にはサンガーを日本に招待しており、日本の産児制限運動にも影響を与えた。サンガーが横浜港に着いた時、政府の役人や警察、記者が70人も出迎えた。「産児制限に関する講演は行わない」と約束させられ、ようやく上陸を許された。サンガーは「まるで私が魔法で人口を減らせるとでも思っているみたい」とコメントしたという。)
 1921年、全米バースコントロール連盟を設立。
 1936年には中絶法改正協会を設立。
 1950年代に友人で富豪のキャサリン・マコーミックに資金を提供してもらい生化学者のグレゴリー・ピンカスに経口避妊ピルの開発を依頼する。ピンカスはハーヴァード大の婦人科医グレゴリー・ロックに臨床試験の協力を求め、後にエノビッドとして発売される薬を作り上げた。
 1960年、アメリカのFDAがエノビッドを避妊薬として承認し、センセーションを巻き起こす。

どこまでいっても完成させられないですね。今日はこれまで。