誤読から生まれた和製英語と叩かれた
1995年の北京会議で「ジェンダー」という概念が多用されたことを背景に、「ジェンダーフリー」という言葉がこつぜんと現れ、急速に広がっていった。「ジェンダーフリー」という言葉が日本において最初に使われたのは、1995年、東京女性財団のパンフレットと3名の日本の教育学者によって書かれたプロジェクト報告書だったと言われる。
ジェンダーフリー&バックラッシュ騒動まとめ
このプロジェクト報告書では、
(1)ジェンダー問題の存在に気づくこと、
(2)自分の中にあるジェンダー・バイアスを発見すること、
(3)自分の中のジェンダー・バイアスを修正しようとする動機をもつこと、
(4)ジェンダー・バイアスの修正に向けて教室での指導技術を工夫する糸口を作ること
――の4つの目標を挙げ、それを達成するために「ジェンダー・フリー」というテーマが必要であると説明する。これを実践するために同財団は「ジェンダー・チェック」リストを作成し、「ジェンダー」に捨て去るべきもの、否定すべきものという位置づけを与えた。
ところが、この報告書で「ジェンダー・フリー」の論拠として挙げているバーバラ・ヒューストンの論文「公教育はジェンダー・フリーであるべきか?」という問いに対して、実のところヒューストンは「ノー」と答えていたのである。英語ではあまり聞きなれないこの言葉に違和感を覚えた山口智美は、原典をあたり、ヒューストンからじかに話を聞いて、報告書の著者たちの「誤読」を確信した。ヒューストンは掛け声だけの「ジェンダー・フリー」の有効性を否定し、「ジェンダー・センシティブ」になることで具体的な対策を立てることの重要性を指摘していたのである。
多くの日本の「ジェンダー・フリー」論者たちがジェンダーに伴う呪縛や偏見から解放されることをうたいながら、「権威付け」としてバーバラ・ヒューストンの論文を用いていたにすぎないことを山口智美は看破していった。
「ジェンダー・フリー」はある種の意識覚醒運動だったと言えるかもしれないが、フェミニズム思想による裏付けに欠いており、社会を変えるよりも個人を変えようとするものだという限界があったように思われる。それどころか、つかまえどころのない「ジェンダー・フリー」は男女共同参画やジェンダーに反対する人々の勝手な解釈を許すことにもなり、「過激な性教育」を叩く国会議員の安倍晋三氏や山谷えり子氏などの格好の攻撃材料にされてしまったのである。
一方、「ジェンダー・フリー」擁護者にとって「ジェンダー」概念はどのようなものかを見ていこう。伊田広行は「ジェンダー」には次の4つの水準があると言う。
①単なる性別としてのジェンダー、
②社会的性別・性質としてのジェンダー、
③規範および参照枠組みとしてのジェンダー、
④「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」としてのジェンダー(そうした性に関わる差別・支配関係を解消することをめざすもの」という意味を含む)。
この④のレベルのジェンダー概念理解においては、必然的に、性別による「不必要・不適切な区別」であるジェンダーにとらわれている状況から離脱することが望ましいわけで、「固定した立場/役割」にとらわれ選択肢の幅が狭められていることに注意を向け、そこからの脱出をめざすという価値(意思)を含んでいる。
これが、「ジェンダーフリー」と呼ばれるゆえんだとされる。性に関わる差別を批判し、差別をなくしていこうとし、性的マイノリティのありようをそのまま認めていこうとする人権概念の水準なのだとされる。
参考『Q&A男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング バックラッシュへの徹底反論』日本女性学会ジェンダー研究会編(明石書店)
そうであれば「ジェンダー・インクルーシブ」か「ジェンダー・フレンドリー」の方が妥当だったようにも思えるが、「ジェンダー」でさえ知らない人がほとんどの20世紀の日本では、そうしたことばを使っても、「ジェンダー・フリー」ほど広まることはなかっただろう。