リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

田村智子議員の中絶薬に関する質問への政府答弁について

政府の常套句「胎児生命」と「リプロはいろいろ」を反駁する試み

令和三年六月一日(火曜日)参議院内閣委員会の答弁で、田村智子議員が中絶薬の導入を機に、中絶への公的補助を考えるべきではないかとの質問に三原じゅん子副大臣はこう答弁した。

 人工妊娠中絶の公的補助に関しては、胎児の生命尊重や女性の自己決定権等について様々な御意見が国民の間で存在し、さらに、個々人のこの倫理観や道徳観というものも深く関係する大変難しい問題であるのではないかなと認識しております。
 そのため、人工妊娠中絶への公的補助、助成につきましても、まずは人工妊娠中絶の在り方に関する国民各層における議論というものが深まることが重要だというふうに考えております。

「胎児生命尊重」は政府答弁にくり返し出てくるが、「日本では胎児に人権はない」こともまた、法務省の答弁で明らかにされてきたことだ(たとえば半世紀前の1970年、「第63回国会 参議院 予算委員会 第13号 昭和45年4月2日」の内閣法制局第一部長真田英夫答弁)。

○政府委員(真田秀夫君) お答え申し上げます。
 御指摘のとおり、憲法は第十三条で、ただいまお述べになりましたような規定を置いておりまするし、いわゆる基本的人権の保障を数々定めているわけでございますが、やはりこの基本的人権の保障という制度は、権利宣言の由来とか、あるいは具体的に憲法が保障している個々の権利の内容に即しましても、やはりこれは現在生きている、つまり法律上の人格者である自然人を対象としているものだといわなければならないものだと考えます。胎児はまだ生まれるまでは、法律的に申しますと母体の一部でございまして、それ自身まだ人格者ではございませんから、何といってもじかに憲法が胎児のことを権利の対象として保障していると、権利の主体として保障していると見るわけにはまいらないと思います。ただ、胎児というのは近い将来、基本的人権の享有者である人になることが明らかでございますから、胎児の間におきましても、国のもろもろの制度の上において、その胎児としての存在を保護し、尊重するということは、憲法の精神に通ずるといいますか、おおらかな意味で憲法の規定に沿うものだということは言えると思います。たとえば児童福祉法の第一条を見ますと、すべて国民は、児童がすこやかに生まれることにつとめなければならない、ということを書いておりますのも、そういう精神から発しているものだろうと存ずるわけでございます。


なお「胎児生命」という答弁が出てきたときには、すぐさま相手の言う「胎児」の定義を問う必要がある。


日本の産婦人科医療においては、多くの場合、妊娠10週(初期の終わり)以降が「胎児」とされている。そうなると、妊娠9週までの中絶に関しては「胎児」ではなく「受精卵」「胚」「胎芽」なので、その期間の中絶については「女性の健康を最優先」して公的補助で行うのが望ましい。そうすることで、中絶はより早期に誘導されるため、「胎児生命」が関わってしまうような妊娠10週以降の中絶は(妊娠12週以降の中期中絶になればそもそも数パーセント程度と少ないのだが)さらに激減するのは間違いない。


また、仮に政府側の答弁が「受精の瞬間から人間」などというとんでもない主張(受精はそもそも瞬間ではなくプロセス)であるのなら、不妊治療において用いられている「凍結受精胚」の「廃棄」は「人殺し」とお考えなのかと質問すると良い。仮に、そうだその通りと言うのであれば、それは「多くの国民の感覚から乖離している」ことを指摘できる。人間の受精卵や胚は多くの人にとって鶏の卵とは全く別物だろうが、妊娠初期の「胚」を人工的に流産させる処置を「胎児殺し」や「人殺し」とは感じないのが一般的な感覚ではないか。現に、廃棄する凍結胚に戒名を付けて葬儀をしたという例は聞かない。(宿せなかったことを残念に思った当事者の両親がなにがしかの「供養」をすることはあるのかもしれないが……それは「人の死」として弔うのとは異なるだろう。)


むしろそのような答弁をすることで、「非常に多くの女性が必要としている医療であることが、海外では確立されている」中絶を、「日本政府が胎児にかこつけて認めようとしないのは女性差別ではないのか」、そもそも刑法堕胎罪は女性たちの「中絶を受ける権利」を侵害しているのではないか、だからこそ、女子差別撤廃条約はくり返し政府に「法の見直し」を勧告してきているのではないかと問える。


なお、リプロについてはも、1994年のカイロ行動綱領で提示された「リプロダクティブ・ライツはいろいろ」な意見があった(今もある)ことを根拠に統一見解がないかのように誤魔化す答弁もしばしば用いられるが、これについては次のように反論できるだろう。


「国際社会においては、1994年に国際文書としては初めて『リプロダクティブ・ライツ』という言葉がカイロ宣言と行動計画に盛り込まれ、179か国の賛成によって採択された。日本はこれに対して何の留保もつけることなく採択している国の一つである。


一方、このカイロ文書の締結時に23か国が反対意見を表明もしくは留保をつけている。そのうち11か国はイスラム諸国であり、12か国はキリスト教国、特にカトリックの勢力が強い国々であり、ともに中絶を罪とみなす宗教的信念がベースにあるのは間違いない。たとえばローマ法王は受精の瞬間から人間の命であると教え、それを人為的に奪うことを禁じている。シャーリア(イスラム聖法)では「胎児は全能の神の創造物で、出生前にも生きる権利をもち、その命を奪うことは刑罰の対象となる一方、イスラームの位置づけにおいて、人間の身体は神からの預かりものとされ、女性が自らの身体に関する決定を完全に自由にできるとは考えられていない」という。(上記の引用が見当たらないため、出典を明記できる内容で補っておく。イスラム教では「人の命は神聖なものであり、創造主である神からの贈り物である」とされ、「40日以降に意図的に胎児を中絶することは、嬰児殺しに等しい計画的な殺人行為であり、これに関与した者すべてに罰が与えられると考えられている」。*1



カイロ会議以降にエルサルバドルとアルゼンチンが留保を撤回したため、現在でもリプロダクティブ・ライツ(特に女性が中絶を受けられる権利)について反対しているのは、イスラム諸国11か国、キリスト教国10か国である。


つまり、リプロダクティブ・ライツに関して「いろんな意見」はない。賛同しているか、あるいは宗教的な信念によって賛同していないかの2通りしかないのである。日本政府はもともと賛同していたにも関わらず、政府側は答弁に詰まると「いろいろな意見」をよく持ち出す。そして、その「いろいろ」の中身は一度も説明されたことがない。これでは国民に対する説明義務を果たしていない。


なお、個人はだれしもそれぞれに信念はもっている。自分の意見と異なる法律や制度が自国内に存在していることは誰にとっても多々あることだが、国民の信念と国の方針が大きく乖離した場合には、それは政治的に解決していく必要がある。ただ「いろいろある」として、ましてや「国民の皆様のご議論にお任せ」などと言って何も行動しないのは、政治家として無責任であろう。


さらに、「リプロダクティブ・ライツ」の概念は1994年以降、数多くの国際会議や国連での議論などを経て精査され、より洗練されてきた。このことは、日本でほとんど紹介されてこなかった。現在では、以下に例示するような国際文書や宣言等々によって、リプロダクティブ・ライツは人権であること、中絶を含むリプロダクティブ・ヘルスケアを得られることは女性の人権を保障するために不可欠な要素であることなどが、国際社会ではくり返し確認されてきた。特に、日本でもすでに締結している女子差別撤廃条約や、一般的意見によってさらなるリプロダクティブ・ヘルス&ケアへの対応が要請されるようになった社会権規約自由権規約では、現在では女性の人権としてのリプロダクティブ・ライツと避妊や中絶を含むリプロダクティブ・ヘルスケアの提供を全面的に支持しており、これに対応していくためにも政府は「リプロダクティブ・ライツ」の理解をアップデートする必要がある。

1994 国際人口開発会議(ICPD, カイロ会議)行動計画「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ」を明文化
1995 第四回世界女性会議(北京会議)行動綱領 女性の「リプロダクティブ・ライツ」と「セクシュアル・ヘルス」の重要性を確認
2000 社会権規約一般的意見第14  「到達可能な最高水準の健康の権利」 性と生殖に関するサービス、情報の保障を盛り込む
2015 持続可能な開発目標(SDGs) 「セクシュアル&リプロダクティブ・ヘルス&ライツへの普遍的アクセス」を盛り込む
2016 社会権規約一般的意見第22  「性と生殖に関する権利」 女性差別撤廃のために生殖の権利を含む女性の健康を保障すべき
2019 自由権規約一般的意見36 「生命権」合法的な中絶への障壁を撤廃し、性と生殖の健康に関するエビデンスに基づく情報と教育、避妊の確保
2020 WHO 安全な中絶ケアを含めたユニバーサル・ヘルスケア