リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

セックスとジェンダー

雑記

私の入っている国際的なMLで、中絶の問題を語る際にトランス・インクルーシブな表現を使うか否かで中心的なメンバーの意見が真っ二つに割れてしまい、どう考えるべきか悩んでいる。

このところ翻訳してきた本の中でもトランス・インクルーシブな表現にすべきという話は出ていて、それはそれで重要だと分かっているし、トランス男性と一緒にでいることもいっぱいあると思うのだけど、「女性」とか「女」というアイデンティティを手放して、「妊娠する人々」と括られてしまうことは、これまでの「女性運動」から得てきたパワーを削がれるような感覚もある。

個々の妊娠して困っているトランス男性を孤立させたり、放置したりしないために、まずは個別の中絶医療の現場でトランス・インクルーシブな配慮をしていくことはとても大切なのだと思うけれども、「女」という括りをいっさい排除することは今はまだ無理だと思うし、「同じ女性」「女同士」というところで安心や共感や連帯感を得ようとしてくる(特に、まだトランス・インクルーシブの問題を知らない)女性たちを排除してしまうことになってしまいかねない。

何にしても「言葉狩り」のようになってしまって、一方が他方の言説を拒否するといった事態だけはさけてほしいなと思う。

ルース・ベーダー・ギンズバーグの半生を描いた映画「ビリーブ(On the Basis of Sex)」で、タイピストが"sex"という言葉がちりばめられた書類に嫌気を示して"gender"に変えましょうかと提案してきて、ルースが承諾するシーンがある。まさか "sex" と "gender" が一致しなくなるケースが出てくるとは、あの時代にはまったく予想がついていなかったわけだ。

今もその時代の延長線上に私たちは生きているわけで、だからこそ新たな問題が出てきたときには、やはりていねいに定義し直しながら、少しずつ修正していくしかないのでは……と、今のところ私は思っている。