リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

人工妊娠中絶を巡る米国の歴史 再び違法になるのか?

ナショナルジオグラフィック 2022年6月15日 5:00

www.nikkei.com

写真はキャプションのみ紹介:この写真で患者を診察する外科医のジョージ・T・ストローザー(右)は、1954年にバージニア州法に違反して人工妊娠中絶を行った罪で逮捕された。(BETTMANN, GETTY IMAGES)


 米国で人工妊娠中絶をめぐる問題が再び激しい議論を巻き起こしている。女性が中絶を選択する権利を認めた過去の連邦最高裁判所による判断が覆される可能性が出てきたのだ。

 米国では、1973年の「ロウ対ウェイド」裁判により中絶の権利が認められているが、現在の最高裁がこれを覆す方針であることを示す意見書がメディアに流出した。この草稿を執筆したサミュエル・アリート最高裁副長官は、一部の歴史家の著作を引用し、中絶の権利は米国の「歴史にも伝統にも」根差していないと結論付けた。

 しかし、問題はその歴史観だ。解釈は多少異なるものの、人工妊娠中絶の歴史を研究したことのあるほとんどの学者は、妊娠を意図的に終わらせる行為が必ずしも過去に違法だったわけではなく、論争的ですらなかったと主張している。こうした学者の意見とともに、米国における長く複雑な人工妊娠中絶の歴史を振り返ってみよう。


胎児の形に切り抜いたプラカードを持って、ホワイトハウスから米議会議事堂までデモ行進する中絶反対者たち。(PHOTOGRAPH BY JEAN-LOUIS ATLAN, GETTY IMAGES)


法律制定以前、中絶は「ごく一般的だった」
 植民地時代から建国直後まで、中絶に関する法律は米国には一切存在していなかった。米オクラホマ大学法律大学院の法律史学者カーラ・スピバック氏は、2007年10月発行の学術誌「William & Mary Journal of Race, Gender, and Social Justice」のなかで、キリスト教会が中絶に関して快く思ってはいなかったものの、それはあくまで不道徳的な行為または婚前交渉の表れであるという見方をし、殺人とまではみなしていなかったと記述している。

 当時、妊娠初期での中絶はごく一般的だったと、米ケネソー州立大学の助教で女性の権利と公衆衛生の歴史家であるローレン・マカイバー・トンプソン氏は言う。

 妊娠検査の精度が低かった時代、胎動が感じられるようになる前の中絶は起訴されることも批判の対象になることもなかったと、多くの歴史家が指摘する。当時は、胎動だけが妊娠していることを示す唯一の証拠だった。初めての胎動は通常妊娠中期、遅くても20週頃までには感じられるようになる。胎児は、そこで初めて赤ちゃん、または人として認められていた。


どうやって中絶していたのか?
 この時代、妊娠の継続を望まない女性には様々な選択肢があった。自宅の菜園で普通に育てられている薬草を混ぜ合わせて摂取すると、当時の言葉で言う「障害物」を取り除き、生理を再開させることができたという。

 「誰にも知られることなく、女性が自分で決定することだったんです」と、マカイバー・トンプソン氏は言う。

 妊娠した女性は、助産師に相談したり、近くの薬局へ行って市販の中絶薬や洗浄器具を購入することもできた。1855年の家庭医学書には、子宮からの出血を起こさせる「通経薬」に関するページがあった。直接「妊娠」や「中絶」に言及したわけではなかったが、「子宮からの毎月の排出を促す」と書かれていた。

 女性が妊娠中絶を選択する理由は様々あるが、効果的な避妊法がなかったこと、未婚者の出産に対する社会の目、出産の危険性などが主な理由だった。1835年、米国の出生率は高く、平均的な女性の出産回数は6回を超えていたものの、多くの女性はその回数を低く抑えたいと思っていた。

 現代医学が発達する前、出産が女性に大きな危険を及ぼすことは、広く認識されていた。歴史家のジュディス・ワルツァー・リービット氏は、1986年の学術誌「Feminist Studeis」で、「たとえ出産を乗り越えたとしても、それによって受けたダメージで一生苦しむかもしれないことを、女性たちは理解していた」と指摘している。

 こうしたことから、意図的に妊娠を終わらせることはごく一般的に行われていた。19世紀の妊娠のうち35%は中絶で終わっていたという推定もある。


全米の州で中絶が合法化されるきっかけとなったロウ対ウェイド裁判の原告女性ノーマ・マコービー(撮影当時35歳)。裁判では、ジェーン・ロウという匿名を使用していた。(PHOTOGRAPH BY BILL JANSCHA, ASSOCIATED PRESS)


 ただし、奴隷の妊娠中絶は厳しく制限されていた。生まれた子は所有物とみなされていたためだ。歴史家のリーシー・M・ペリン氏は、2001年8月の学術誌「Journal of American Studies」に掲載された論文で、奴隷所有者は自分の奴隷が勝手に中絶しないかどうか疑心暗鬼になっていたと書いている。なかには、自己堕胎を疑われて部屋に監禁された奴隷もいたという。綿の根を噛んだり、テレビン油を飲んで中絶を試みた奴隷女性もいた。

 一方、中流から上流階級の白人女性は有利な状況にあった。19世紀の米国では、男女の社会的な役割分担がはっきりとなされており、妊娠、出産、生殖管理に関する知識は、医師ではなく女性から女性へと伝えられていた。「自分の生殖に関することは、自分のなかだけで決定することができたのです」と、マカイバー・トンプソン氏は言う。


 「1982年には、流産した女性が殺人罪で起訴されるようになるかもしれません。中絶は政治ではなく個人の問題です」。1980年、人間の生命は受精時に始まるとする法案が米議会上院に提出されたことに反対して、中絶権利擁護団体「プランド・ペアレントフッド」が作成した広告。ロウ対ウェイド裁判以来、中絶反対者は、憲法改正やその他の法制化によってこの判決を覆そうと働きかけてきた。(BRIDGEMAN IMAGES)
中絶が犯罪に
 しかし、それは徐々に変化し、州の法律で人工妊娠中絶を禁止しようとする動きが出始める。その多くは、無規制だった市販の中絶薬や、胎動が感じられた後の中絶に関するものだった。1821年に初めてこれを条文化したコネティカット州は、「胎動初覚後の女性の流産」を引き起こす目的で、毒もしくは「その他の有害で破壊的薬物」を提供または摂取した者は処罰されるとしていた。

 19世紀半ばに医師の職業化が進むと、女性の生殖周期のケアは女性の助産師ではなく男性の医師に任せるべきであるとする声が、医師たちの間で高まった。それとともに、妊娠中絶への批判も始まった。

 その先鋒(せんぽう)に立ったのが、ホレシオ・ストラーという婦人科医だった。中絶は犯罪行為であると考えていたストラーは、1857年に米国医師会に加入して1年も経たないうちに、反中絶の立場をとるよう医師会に強く働きかけた。また、仲間の医師たちを集めて「中絶に反対する医師の会」を立ち上げた。医師たちが公に意見を述べるようになったことで、中絶を犯罪行為とする法律が次々に成立した。

 反対者にとって、中絶は道徳に反するだけでなく、社会悪でもあった。移民の流入、都市の拡大、奴隷制度の廃止で、白人は自分たちにとって好ましくない集団が多数派になることを恐れていた。そして、白人女性が国の将来を守るためにもっと子どもを産むべきだと主張するようになった。


中絶禁止の弊害
 米オレゴン大学の歴史学者ジェームズ・C・モーア氏は、『Abortion in America(アメリカの人工妊娠中絶)』と題された本のなかで、1900年までに米国は人工妊娠中絶に関する法律が一切なかった国から、正式に違法とされる国に変貌を遂げたと書いている。そのわずか10年後、全ての州が反中絶法を成立させていた。ただしその多くは、母体に危険がある場合を例外としていた。

 中絶に関して、以前なら普通に入手できたはずの情報を得ることも難しくなった。1873年に、わいせつ物を郵便で送ったり、州境を超えて運ぶことを違法とするコムストック法が施行されたが、そのわいせつ物には中絶や避妊に関する情報も含まれていた。


 1984年9月、中絶反対者とフェラーロ支持者が入り混じったボストンの演説会場。カトリック教徒だったフェラーロは、個人的には中絶に反対するが、他の国民にその考えを押し付けるつもりはないとの立場をとっていた。(PHOTOGRAPH BY SEAN KARDON, ASSOCIATED PRESS)
さらに、1906年の純正食品・薬品法によって、薬品名を改ざんした医薬品や体に有害な医薬品の製造・販売・輸送が禁じられた。こうして、安全な中絶の方法へのアクセスがますます困難になっていった。

 しかし、それで中絶を求める女性の数が減るわけではない。結果として、20世紀には未認可の医師による中絶行為が増加した。高額な費用を出すことのできる人々は、口コミでもぐりの中絶医を探し出す。お金がない女性は、昔ながらの薬草のレシピを試してみたり、漂白剤入りの洗剤で洗浄したり、果ては自分で胎児を取り除こうとしたりした。


1986年3月9日、米国の首都ワシントンDCでデモ行進する中絶権利の擁護者たち。女性が持つプラカードには「私は助産師で、中絶の権利を支持します」と書かれている。(PHOTOGRAPH BY ANN E. ZELLE, GETTY IMAGES)


 20世紀にどれくらいの女性が中絶を求めたのか、どれくらいが自己堕胎を試みたり、もぐりの中絶医による施術で死亡したかははっきりわかっていない。1942年、この問題に頭を悩ませていた米国勢局主任統計学者のハルバート・ダンは、正確な報告件数こそないものの、中絶は明らかに妊婦の死亡率を引き下げるうえで最大の障害となっていると書き残した。

現代まで続く論争
 1967年には、母体の健康が危険にさらされている場合と、性暴力の被害者を例外として、中絶は全ての州で重罪とされていた。

 しかし、流れが変わったのは1970年代に入ってからだった。多くの州が、中絶を違法とする法律の見直しを始めたり、規制を緩和し始めた。そして1973年、有名なロウ対ウェイド裁判と、知名度は低いものの同等に重要なドウ対ボルトン裁判の2つで、女性の中絶権を認める判決が下された。

 それ以来、米国ではこれらの判決が与えた影響をめぐる論争が続いている。判決から50年近くが経ち、今生きているほとんどの女性は、ロウ対ウェイド以前の世界を知らない。「ロウ対ウェイドは、中絶の安全性、有効性、アクセスのしやすさという点で米国の風景をがらりと変えました」と、マカイバー・トンプソン氏は言う。その風景は、ロウ対ウェイドが覆された後、どのように変わるのだろうか。これまでの歴史を見れば、その答えはわかるかもしれない。


文=ERIN BLAKEMORE/訳=ルーバー荒井ハンナ(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2022年5月26日公開)