リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

1968年のパウロ6世の回勅「フマネ・ヴィテ(人間の生命)」について,ある作家は次のように書いています。

この手紙【回勅】は大きな驚きであった。近代的な避妊テクニックの道徳的正当性を判断するために委員会が作られていた。その委員会のメンバーの大多数が,いわゆる“自然な”方法(判断が難しいことで悪名高い女性が妊娠しないと思われる時期に性交を限定する方法)と並んで,ある種の出生コントロール(“ピル”)を教会が認める方向で報告書を出していることは広く知られていた。多数派による報告書にもかかわらず,教皇が委員会のごく少数派の結論を採用したとき,激しい抗議が巻き起こった。
 避妊に反対する理由は,不自然であること,結婚の第一の目的,すなわち子どもを得ることに反することである。さらにそこには,充分に根拠のあることではあったが,避妊の普及は婚姻外の性行為が当たり前であるような風潮を助長するという恐れがあった。だが教会の伝統的な道徳では,性行為は婚姻の中でのみ許容されるものだと見なしている。教会の教えが変わりうるものかどうかが論点の一つであったが,近代的な避妊の使用という点について,カトリックの性道徳が人口全体とほとんど違わないことは明らかである。実際,「フマネ・ヴィテ」における避妊の禁止はあまりにも広く無視されているため,その点で教皇の権威が切り崩されてしまったことは否定しがたく,その権威はもはや20世紀の前半ほど,カトリック教徒にとって疑問のないものだと受け入れられてはいない。
……
 避妊とは違って,中絶の慣行については,カトリックは人口の大多数に比べて今でも反対寄りだと一般に思われている。しかし,カトリックの女性が,他の女性よりも中絶の頻度が低いという証拠はあまりない。中絶への反対は,人間生命が受精の瞬間に始まるとするか,少なくとも受精後ほどなく始まるとする信念と命を奪うことへの禁止に基づいている。この議論は非常にシンプルだが,それにより生じる状況は非常に複雑である――たとえば,出産することで母親の生命が危険にさらされる場合はどうするのかといった問題である。
 医療倫理では,一般的にこの種の問題が発生するものであり,安楽死が類似したケースである。カトリック教会は安楽死に強硬に反対しているが,しばしばそこでの問題は定義の問題である。たとえば,カトリックの道徳学者たちは,医師が極端に長い期間にわたって人を生きつづけさせるべきではないと主張している。だがそれでは,どの点で境界線を引けばいいのか? その点については大いに異論の余地がある。【訳 塚原久美 (c)2006】

Michael Walsh, Roman Catholicism:The Basics, Routledge, 2005:148-149.
著者はイギリス人の宗教作家です。