朝日新聞 法医解剖医 高瀬泉 連載2回目
二宮俊彦、山崎毅朗 2021年1月9日 18時43分
司法解剖をすることになったその女性は、20代前半だった。ビルからの転落死。複数の男に性的暴行を受けた数日後だった。
山口大の法医解剖医・高瀬泉にとって、忘れられないケースのひとつだ。法医学者として歩み始めた頃のことだった。指導教官の補助として、解剖台に横たわる女性に向き合った。
警察官の説明では、女性は乗用車に1人で乗っていた男から「家まで送るよ」と声をかけられ、連れて行かれた先で被害を受けた。
その時の高瀬の脳裏に、研修医時代の出来事が浮かんだ。近畿地方の総合病院。産婦人科の看護師から「あの女性は子どもが生まれたら乳児院に預けるそうです」と耳打ちされた。10代後半の女性。複数の男から性的暴行を受け、誰が父親か分からず自分では育てられない――。
「女性たちがなぜ、こんな目に遭うのか」。物言わぬ遺体を前にして、性暴力の理不尽さに高瀬はぼうぜんとする思いだった。あっという間に時間が流れ、解剖の詳細な過程は覚えていない。ただ、その女性の顔は網膜に焼き付いている。
硬直する体
2020年3月18日、高瀬の姿は東京高裁の法廷にあった。
12歳だった長女への強姦(ごうかん)罪に問われた男に静岡地裁が無罪を言い渡した事件の控訴審。「強制性交があった」と鑑定した高瀬の証人尋問が行われた。
高瀬は裁判官らに画像を示しながら「性行為による裂傷の痕跡が確認できる」と証言。スポーツなどでのけがではあり得ないとも述べた。
一審の静岡地裁で検察側は、長女が約2年間、週3回ほどの頻度で暴行を受けていたと主張した。だが、判決は家族が気づかなかったことは「あまりに不自然」と認定。長女の供述が揺れ動いているとして「被害者の証言は信用できない」としていた。
「画像だけで判断できるのか」「性行為以外に裂傷が生じる可能性はないのか」「長女と直接、話したことはあるのか」。高裁の証言台に立った高瀬は、被告の弁護人からおよそ1時間、矢継ぎ早に質問を受けた。高瀬は時に語気を強めながら、自説を述べた。
性暴力を受けた証拠が不十分で、「泣き寝入り」を強いられた女性たちの姿を目にしてきた高瀬は、SACHICOでの証拠保全の手順を決めた。駆け込んだ被害者の傷の確認や加害者の体液の採取を徹底し、法廷での争いに備える体制を整えた。
一方で、被害を警察に届けるかどうかは相談者の意思にゆだねている。警察の捜査や裁判は、大きな心理的負担になりうるからだ。加害者が親族や友人、職場の同僚など、身近な人物であることも多く、被害の訴えが社会的な孤立につながってしまう場合もある。
SACHICOに被害を打ち明けようとして、言葉が出てこない人もいる。高瀬はそんな時、ただ沈黙を共有する。言葉にならない思いをくみ取り、「あなたは悪くない」と語りかける。=敬称略(二宮俊彦、山崎毅朗)