リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

新出生前診断による「中絶」を考える前に踏まえておくべきこと

日本医学哲学・倫理学会でワークショップ「中絶のなにが問題なのか」を企画し、僭越ながら司会をさせていただきました。報告をお願いした3人の先生方は、倫理、医学、法のご専門からそれぞれに全く異なる「中絶」へのアプローチを提示してくださいました。立場の違いから見えているものが全く違うことが明白になったばかりか、この問題を考える際に、学際的な研究が不可欠だということもまた明らかになったと思います。

ご報告者の1番手は、京都女子大学の江口聡先生。胎児と女性の二項対立を解くための従来の議論を簡単に紹介して、「バチカンも説得できる」ような胎児の位置づけを模索しているとのことでしたが、「法的には解決しえても、倫理的には解決できない」という結論に落ち着いてしまいます。しかし、それは「受精から一環として胎児」という定義を前提にしているためであり、その定義が誰のものであるのか、その定義を採用すること自体にすでにバイアスがあるのではと疑うべきだと、聞いていて私は思いました。

2番手は金沢大学医学部産婦人科の打出喜義先生。日本の中絶が世界ではもはや廃れている(危険だとして他に置き換えられるべきだとされている)搔爬(D&C)という外科手術で行われていること、実際、掻把を使用しているためだと考えられる子宮穿孔等の事故が起きていること、日本の産婦人科の教科書では今も掻把をメインに扱っているものがあるといった事実の提示に、会場はどよめいた(ように感じられました)。

3番手は大阪国際大学の谷口真由美先生。国際法がご専門で特にリプロダクティヴ・ライツにかけては国内屈指の研究者である谷口先生のお話しでは、国際条約が「憲法」よりは弱いが他の「国内法」よりも優先されることを確認しておいて、日本も批准している女性差別撤廃条約に照らすと堕胎罪や母体保護法には問題があるということを浮き彫りに。その手際のあざやかさに、胸がすく思いでした。

もちろん、倫理的な議論がすべて不毛だというつもりはありませんが、会場から「これまで倫理委員会などしてきたが、いったい何を審議してきたものか」と嘆く声も上がったように、医学的、法学的な事実を見ないままに議論することの危うさが露呈されたように思います。

日本の中絶が日本特有の社会的・歴史的事情を引きずっているということも考慮しなければなりません。日本で1940年代に人口抑制策として行われた中絶合法化と(その時代の中絶医療の水準と)、欧米で1960〜70年代に女性の権利として認められた中絶合法化と(その時代の女性の健康に配慮した中絶医療の水準と)を、しっかり見比べなければなりません。

日本の中絶医療はガラパゴス化しています。また、仮に劣悪な中絶医療のままにあえて据え置くことで女性(の健康)を脅かし、その恐怖によって中絶を忌避させようと狙っているのであれば、それは決して倫理的なことだとは言えないでしょう。

そもそも欧米の現代的な中絶の倫理の議論は、安全な中絶技術が登場したことから、女性の求めに応じて医師がすべきかどうかという議論から始まったのだということを忘れてはなりません。新出生前診断の問題が浮上して、中絶への関心もやや戻ってきつつある感がありますが、その「中絶」が「いつ」「どんな対象に」「どのような方法で」行われているのかといったことにも、目を向ける必要があります。