リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

 かつてミシガン州のアナーバーにに研修旅行に行ったとき,本屋で女の子の育てられ方に関する本("
Smart Girls, Gifted Women")を見つけて,まさに自分のことだと膝を打ったことがある。女性が能力を伸ばせない理由を,その育てられ方に探った女性心理学者の本だ。思い当たることばかりで,内面化された規範(女の子らしさ)が自分自身の力を押さえ込んできたことを痛感させられた。あの本はわたしのターニング・ポイントになった。娘を育てるようになってから,時々,あの本のことを思い出しながら,なかなか手にとって読みなおす時間を取れずにいる。

 それが今朝,ふと思い出した。土日に遊び相手がいない一人っ子の娘は,暇ができると片っ端から友だちの名を挙げてきて,一緒に遊べないかと電話をさせられる。昨日もそうだったのだけど,週末は家族で過ごす家が多くて,近くのお友達がなかなか見つからない。あまりに断られることが続くと親の方も焦ってきて,「だれかうちの子と遊んでくれないかしら……」とせっぱ詰まった気分になってくる。そこでふと……あの本が「独りの時間」の大切さを説いていたことを思い出したのだ。だれにも邪魔されず,自分独りで考え,自由に想像力を羽ばたかせることは,けっして悪いことではない。むしろ積極的にそうした時間を作るべきだ……といった話だったと思う。

 自分も含めて,今の親たちは,お膳立てしすぎるような気がする。独りでいると可愛そう……と感じてしまうのは,自分自身の投影なのかもしれない。子どもは子どもでけっこう平気なのかもしれないし,実際,遊び相手が見つからないと分かると,最初は不満げだけど,すぐに親を玩具にし始めたり,ひとりで何かしら遊びだしたりするものだ。

 実際,わたしだって,こうやって独りでコンピュータに向かったり,本を読んだりできる時間がとても大切。ほっとできる。ジャズ喫茶で音に埋もれたり,美術館でじっと作品と向き合うときにも,邪魔になるような人といるよりは,むしろ独りでいたほうがいい。

 独り遊びしているからといって「可愛そう」と思う必要はない。「孤独に耐える力を養ってるんだ」と思えば,ずいぶん見方が変わる。

 ここまで書いて,授業参観のあった水曜のことを思い出した。算数の授業で,黒板にずらりと並べて描いた金魚の「前から3匹」と「前から3匹目」との違いを理解するという内容だった。先生が「前から3匹の金魚が病気です。どれが病気かな?」と質問し,ひとつずつ金魚を指さしていく。娘は1番目と2番目の金魚は「違う」と答えた。他のほとんどの子が「そうだ」と答えた。最初,娘と一緒に「違う」と言っていた子たちも,「そうだ」のほうが大勢だと気づいて意見を変えた。最後まで「違う」と言い続けたのは娘一人だった。先生は娘を指名し,黒板の前でどうしてそう思うのかを説明させた。続いて,別の「そうだ」と考えた子を指名して同じことをさせた。娘は自分の間違いに気づき,自ら正答を選び取った。

 最初,わたしの心のなかでは「うちの子だけ間違えて恥ずかしい」という気持があったことは否定できない。「やっぱり日本語の発達が遅れているせいかなぁ……」などと心配もした(娘は意図せずしてバイリンガル教育を施す結果になってしまったために,日本語が他の子よりも多少遅れている。)。だけどすぐにわたしのなかには,自分の意見を最後まで貫いた娘を誇りに思う気持が湧いてきた。それをやらせた先生にも感心した。あとで連絡ノートで,先生も「授業参観なので(他の子は)親の前で間違いたくないという気持が働いたようです。Kちゃんは立派でしたよ」と書いてくださったのを見て,ますますうれしくなった。

 もしかして,親が心配することはないのかもしれない。思ったよりも,はるかに娘は「独り」に強いのかもしれない。少なくとも,それを親として信じてやらなければいけないし,「可愛そう」と当人に向かって言うことで,「独りでいることは可愛そうなこと,いけないこと」という観念を植えつけることは何より避けたい。

 考えてみれば,わたしは通知票にいつも「協調性がない」と書かれていた子だった。本が好き,ピアノが好きで,独り遊びばかりしていたから……。蛙の子は蛙,なのかな。