リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

 顕微鏡の技術革新によって,発生の初期段階の観察が可能になり,初期胚の構造が成熟した細胞とは全く異なることが徐々に解明されていった。1828年,Karl Ernst von Baerは比較発生学の記念碑的論文「動物の発達について On the Development of Animals」を発表し,ホムンクルス伝説を含むあらゆる前成説に終わりを告げた。彼は様々な動物の種にはある共通した発生の段階があり,外胚葉と中胚葉,内胚葉が層を成す有機体に他ならないことを明らかにしたのである。*1
 プロライフ運動家のLaBarbergによれば,この発見が中絶禁止の起点になった。なぜなら,これ以前,神がどのように赤ん坊を作られるかは誰も確かなことを知らなかったためだと彼は言う。*2
 一方1858年,アメリカの医師会(AMA)は中絶について「一般的に控えるべき」だと決議した。*3胎動前の胎児は生命を宿していないとみなすことで胎動前の堕胎には寛容だったコモンロウの伝統は誤りであり,懐胎中のすべての段階において胎児を「生命体」だと見るのが「道徳的」な見方だと医師たちは主張したのである。*4そう主張した理由は3つある。第一に,胎児は胎動の起きる前から生きているという事実を女性たちは理解していないので,科学的知識を有する正規の医師が彼女たちを無知ゆえの罪から救うべきであるだとされた。第二に,胎児生命について無頓着であった医師自身の態度を改めるべきだと,専門家としての倫理確立を同僚たちに促した。第三に,民法では胎児の財産継承権を認めながら刑法では胎児の権利を認めていないという法的不整合を避けるためだった。*5
 科学的真実が宗教的言説の過ちを暴いていくようになると,キリスト教会の側は近代社会と決別した。ピウス9世は1864年の回勅「Quanta cura」に添えた「誤謬表sillabo」の中で,合理主義,啓蒙主義自然主義社会主義共産主義などを断罪したのである。さらに1869年の第1回ヴァチカン公会議で,教皇ピウス9世は「胎児は受胎の時からすでに人である」という見解に立って,教皇としては初めて,すべての中絶を殺人だと宣言した。これにより,どの時期の妊娠だろうと中絶をした信者は破門の対象にされたのである。さらに翌年の公会議では,教皇無謬説(教皇は神の代理人であり過ちを冒さない)が承認された。*6
 だが世俗の社会のほうでは,ちょうどこの頃,アメリカからもたらされた硫化ゴム製のカテーテルを用いた穿刺法と呼ばれる中絶手法がヨーロッパに広まりつつあった。注射器等を用いた注入法の開発も進んでいた。まだ初期中絶を安全に行なう手段はなかったが,人工早産法の研究が進んだおかげで,後期中絶については以前より一段と安全性が確保されるようになった。おそらくそのために,治療の一環として中絶を行なう可能性についても論じられるようになったのだ。(患者を救えると思えばこそ,医師たちは積極的に手がけようという気になったのだろう。)すでに19世紀半ばから治療的中絶の適応症論争が開始されていた。19世紀末から20世紀の初めにかけて,欧米の先進国では非合法で非医療的な堕胎から,医師による合法的な人工妊娠中絶に移行する可能性が模索され始めたのである。*7

*1:Marcello Barbieri, The Organic Codes: An introduction to semantic biology, Cambridge University Press, 2003:13.

*2:Peter LaBargera, Abortion in America: Thirty years after Roe v. Wade, a pro-life veteran remember and reflects, Family Voice Jan./Feb. 2003: 16-20.

*3:ロウ判決参照

*4:Petchesky 1988:80.

*5:ロウ判決参照

*6:Abortion and Catholic Thought: The Little-Told History, http://faculty.cua.edu/Pennington/Law111/CatholicHistory.htmなど参照。

*7:中絶技法の変遷については,エドワード・ショーター『女の体の歴史』など参照。