リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

三者によって“自己”の消去や還元にさらされてきた人々にとっての「権利の語りrights talk」の意味について。

フェミニスト法学者Frances Olsenの言葉によれば,権利は「記述的」あるいは「分析的」なものだというよりむしろ「勧告的」なものである。「権利の語り」はある種のビジョンを指し示す。PetcheskyはOlsenの定義を受けて,次のように続ける。

女性たちのクレイムを普遍化して,より大きな正当化の源泉(人権や人間の権利)に結びつけたいという衝動は,単なる「競い合う利害」の一つ以上のものとして承認されることを求めている権利を剥奪されたあるいは周縁化された集団として,あるレベルでは避けられないことである。西洋的な自由主義的,法的,フェミニスト的伝統の中で生成された抽象的な個人主義のレトリックと,多様な政治行動の文脈において主張される権利の集合的,共同体的側面とを区別する必要がある。上記の文脈の中において,権利は一つの批判的言説となり,それを通じて集合的アイデンティティが定義され,公的に宣言され,特定の歴史的瞬間において一時的に達成される。このようにして,権利は集団(女性,黒人,ゲイとレズビアン)を公的な人々(selves)として構成し,政治的行動に関わるようエンパワーするナラティヴの一部になる。つまり,「権利の語り」を放棄したりすれば政治性も全面的に放棄することになる。(p.395 試訳:塚原久美)

Abortion and Woman's Choice: The State, Sexuality, and Reproductive Freedom (Northeastern Series in Feminist Theory)

Abortion and Woman's Choice: The State, Sexuality, and Reproductive Freedom (Northeastern Series in Feminist Theory)

「権利の語り」はそれ自体が,同じ集団に入るべき人々へのエンパワーメントになるのだ。特定のクレイムは個人の権利を第三者に認めさせるためばかりでなく,その権利にまつわるあるヴィジョンを社会に知らしめるためのバナーでもある。