リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

子どものための英語アクティビティ・サークルを作ってはどうかと考え,このところちょっと調べ始め,準備のために人に会ったりもしだした。やっぱり,北陸には子どもたちが英語で歌や劇を通じて学べる場所はあまりないみたいなので,自分で作るしかないと思ったのだ。

子どもに英語を早期教育することについて,批判的な人も多いことは知っている。だけど英語は世界の中で生きていくためには,もはや必須の道具だし,次世代の子供たちにとって,わたしたち以上に,その必要度が高まっていくことは間違いない。日本語を話す人口は,今後,どんどん減っていく。今の環境で娘にバイリンガル教育を施すことは不可能だし,特殊な英才教育をするつもりもないけど,わたしにできる限りの範囲でESL(English as a Second Language)教育やグローバルな感覚を育む(つまり,この地域社会や日本から飛び出していけるだけのアイデンティティと感性を育む)情操教育はしていきたいと思っている。(“教育ママ”と言われようと,「バカ親」と言われようと,この件に関しては譲れない。)

で,自分の論文の手を止めて娘の周囲を見回したら,納得できないことがあまりに多すぎるわけ。しかたない。これでは,自分でやるっきゃない,と一念発起した。やりたいことがあったら,まずは一緒にやりたい人を募ればいい。「この指とまれ」だ。合い言葉は"Think Globally, Act Locally"!!

……と書いてみてから,そういえば,たしかこの標語については批判があったよなぁ……と思って調べてみた。そしたら高橋仁さんという方の次の修士論文がみつかった。

1998年度 修士論文 北米における環境倫理思想と教育
−人間と環境とのよりよい関係を求めて−

http://www6.plala.or.jp/jinbe/thesis/index.html

環境倫理をテーマとしたこの論文の第三章の中で,「Think Globallyか,Think Locallyか」という問題が扱われている。その中で,筆者はオール*という人の言葉を紹介し,次のようにまとめている。

 *Orr,David W.,et al.,Thinking Locally and Acting Locally,in;Holistic Education Review,Vol.8,No.2,1995,p.48

われわれがなすべきことは,「地球規模の」考え方や「地域レベルの」考え方ではなく,両方の側面を視野に入れた,「正しい」考え方を促進することである。

 かくして,「Think Globallyか,Think Locallyか」という問題は,もはや問題にならない。どちらも必要なのである。具体的な状況に応じて,ふさわしい考え方を選択していくというアプローチが要求されているのである。

http://www6.plala.or.jp/jinbe/thesis/chap3.html

まあ,これはこれで正しいと思う。それでも,"think globally, act locally"という言葉の警句としての意義は,まだ残されている。この言葉は,ともすれば自分の利害ばかりに囚われ視野が狭くなる人間(とくに親たち,なかでもわたしを含む母親たち!?)の性癖を戒める一方で,グローバルに考えたとたんに,何をしていいのか分からなくなったり,机上の空論ばかりで行動に移せなくなることへの戒めにもなりうるからだ。

じつは,わたし自身は"think locally, act globally"と全く逆のことを,かつてあるエッセーで提唱したことがある。地域の中での“差異”(この時に扱っていたのは「外国人ママたち」)に背を向けず,グローバルな子育ての環を作っていこうという話を書いたように記憶している。

結局,“公私の問題”というものも,“世界と地域”というものも,密接に関連しており,どちら側からもアプローチ可能だということなのだ。ただ,どちらかといえば人間は小さい問題のほうに先に囚われやすい。そこから,視野を広げていき,自分の問題が世界に通じていることに気づくと,行動の必要性が見えてくる。"The personal is political."も,同様の発想に立つ言葉だ。

……おやまあ,思わぬところまで話が広がってしまった。今日のところはもうやめておこう。ともかくも,子どもの英語教育という問題は,世界の平和にまでつながっていきうることだし,だけど自分の目に映ったさまざまな“問題”を解決していくには,まず地道な一歩を地域で(自分の足で)踏み出すしかない……ということで,話を終えておくことにする。