リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

今日もまた本棚から

知る人ぞ知る『女から生まれる』、アドリエンヌ・リッチ女性論3部作(かな?)の1冊。この本は高橋芽香子さん(お会いしたことがない)の訳です。

女から生まれる―アドリエンヌ・リッチ女性論

女から生まれる―アドリエンヌ・リッチ女性論

原題は"Of Woman Born"・・・これをどう訳すのが正しいのか、いまだにわかりません。

あちこち付箋やアンダーラインをつけてしまっている本なのですが、目につくところをちょっと引用してみます。(ここで紹介するのがbest partsというわけではありません。たまたま目についたところだけです。)

一九七三年にニューヨーク・タイムズは、日本で幼児殺しが流行しているという見出しを掲げた。記事によると平均十日ごとに、駅のコインロッカーに新生児が詰めこまれているのが発見された。ときには懺悔の言葉をつらねたメモがついていることもあった。。東京だけで一年に一一九人の赤ん坊が捨てられていたという。タイムズでは、これらの死を、中絶を認める法律の見直しや、同じ月(一九七三年十二月)にボストン女性解放ニューズレターが報告しているペッサリーなどの避妊手段が限られていたこととは結びつけていない。

そういえば、今日、目にしたHelen Hardacreの本(最後に紹介)に、1970年代の話として、日本人女性は自分の身体に触れるのを好まないので(避妊法として)ペッサリーは論外だという話が出てきましたっけ。


『女から生まれる』の引用に戻ります。

妊娠中絶への宣告は胎児がいつ「人間」になるかを生物学的あるいは法的に決めようとする試みから、きわめて抽象的な論理づけや倫理の確立にいたるまで幅広い。ここではそれらの幅の広さを列挙してみようとは思わない。メアリ・デイリーはすでにフェミニストの見地から概観を呈して、こう書いている。

ここでデイリーの本の引用の引用になってしまうのですが、日本では未訳なので、まあ仕方がないでしょう。

……妊娠中絶はあらゆる人々が考える「究極の選択」でもなければ各目の最後の仕上げでもない。このことをめぐって強い疑問がいくつもある。たとえば、なぜ女が全く望まない妊娠をする事態になるのだろう? 中絶を自分にとって必要な手段だとみなす女たちはいるが、それを女にとって最高の夢が果たされたものだとは誰も思わない。中絶を侮蔑的な過程とみる者も多い。堕胎薬ですら、完成すれば防御的手段つまり目的を果たす一手段としてみることはできるが完全に解放を具現化するものではない。この点でごまかされるフェミニストはほとんどいない。もっとも、男の妊娠中絶法廃止論支持者たちは、フェミニスト革命を性革命と混同して、しばしばこの点で近視眼的になりがちだ。

これを受けて、リッチは次のように続けます。

法に守られた妊娠中絶を要求することは、避妊の要求と同じように、女たちの一種の無責任だとか、女が宿命としてもつ道徳観に直面することを拒絶したり、生死という重大な問題を軽視したり避けたりすることのようにとられてきた。しかし人間にかんする事実でとるにたりないことなど何もない。

少し先で、

妊娠中絶をすることでまず暴行を受けるのは、妊娠した女自身のからだとこころであることは明らかだ。女であろうと男であろうとたいていの人間にとって、注射したり、膿んだ指をピンセットで開いたり、小さなとげをとったり、そんなちょっとした処置でも自分でするのは非常にむずかしい。

なのに、なぜ、自分のからだと心への危険や侵襲を覚悟して、違法の堕胎に赴く女性たちがいるのか・・・という話に続きます。つまるところ、

もし百パーセントの効果があって、害のない避妊が簡単にできれば、女が自由でいるかぎり、中絶を「選ぶ」ことはないだろう。

同感です。奥付によれば原著のコピーライトは1976年ですが、これは3分の1世紀後の今も、いや、永遠の真実です。

先に触れたHardacreの本も紹介しておきましょう。


Marketing the Menacing Fetus in Japan (Twentieth Century Japan: the Emergence of a World Power)

Marketing the Menacing Fetus in Japan (Twentieth Century Japan: the Emergence of a World Power)


日本人の中絶に対する罪悪感がにわかに高まったのはいわゆる「水子供養」が登場した1970年頃のことだ・・・という話です。日本の中絶問題を研究する人の必読本です。