読売新聞 2021/6/17
母体保護法は女性の妊娠中絶に「夫の同意」を求めている。これに対し厚生労働省は今年3月、家庭内暴力(DV)の被害女性は同意が不要とする方針を示した。背景には、過酷な負担を強いられる女性に加え、夫による訴訟リスクと隣り合わせで手術に臨む医療現場の強い危機感がある。(山崎成葉)
妊娠中絶手術の際、医療機関への提出が求められる同意書。女性本人と配偶者の署名が必要だ
「夫から性行為を強要されました」
約5年前、関西地方の総合病院を訪れた30歳代の女性は、消え入りそうな声で産婦人科医に話した。
女性は中部地方在住で、妊娠10週目。地元の病院で中絶手術を断られていた。法が定める手術への夫の同意がなかったのが理由だ。
夫とは、約10年前に恋愛結婚したが、間もなく家事のことで激しくなじられるようになり、性行為も強いられた。長年、言葉や性的なDVを受け、望まない妊娠をした。
宿った命を絶つことへの苦しみはあった。それ以上に生まれてくる子を愛せない自分への恐怖が勝った。
「同意を得るため、もう1回だけ旦那さんに会えますか」。産婦人科医が尋ねると、女性は顔をこわばらせた。「もう、できません」。夫との接触を求めれば、女性は自殺しかねない。そう判断した病院は、夫のDVを詳細に記したカルテを作成し、手術に踏み切った。
DVの相談件数は年々増加している。2020年度は、その10年前の約2・5倍の約19万件(暫定値)を数えた。同年度の内閣府の調査(1400人が回答)では、夫による性行為強要の経験があると答えた女性は8・6%に上っている。
だが、各地の女性支援団体によると、妊娠したDV被害者が医師に中絶手術を求めても断られることが多い。本人と配偶者双方の同意がなければ医師は原則、中絶手術ができないと、母体保護法が規定しているためだ。17年には、岡山地裁が妻の同意のみで手術した兵庫県赤穂市の赤穂市民病院側に、夫への賠償を命じる判決を言い渡した。
本人の同意のみで手術できるのは、配偶者が死亡、行方不明、意思表示できない場合。15年には、東京地裁が同法のこの規定を広くとらえ、「DV被害者の妻が、夫の意思を確認するのは事実上困難」との判断を示した。日本産婦人科医会は医師側に判決を情報提供しているが、手術の動きに広がりは見られない。
そんな中、関西地方の総合病院には、各地の病院で手術を断られた女性らが、支援団体や行政の紹介で訪れる。病院は東京地裁判決と同様の法解釈で対応。訴訟対策でDVの内容を事細かにカルテに残し、夫に対する接近禁止命令を裁判所から取得するよう女性に促すこともある。
総合病院の産婦人科医は「決して闇でやっている行為ではなく、法に基づいた手術だが、堕胎罪に問われる不安や恐怖を常に抱えている」と吐露する。刑法の業務上堕胎罪の法定刑は5年以下の懲役だ。
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厚労省の方針明示は今年3月。DV被害者の手術について日本産婦人科医会と協議してきた日本医師会(日医)からの照会に、同10日付で「妊婦が夫からDVを受けるなど婚姻関係が実質破綻し、手術の同意を得ることが困難な場合、本人の同意だけでよい」と回答した。
厚労省の担当者は取材に「医師らが苦慮する現状があり、法解釈を明確化させた」と説明。DV被害者の一時保護などを担う婦人相談所や配偶者暴力相談支援センターにも同19日付でこの方針を伝えている。
同医会の種部恭子常務理事は「不安定な女性と医師の立場を守るもので、大きな前進だ。ただ、DVかどうかの判断は医師に委ねられており、研修を行うなどして判断の違いが出ないよう支援したい」と話す。
国連女子差別撤廃委員会は16年に配偶者同意の撤廃を日本に勧告している。お茶の水女子大の 戒能かいのう 民江名誉教授(ジェンダー法学)は「出産や中絶の決定には男性優位の考え方があり、女性の健康や安全は軽視されてきた。国際的な圧力やDVなどの問題を受け、国はようやく方針を示したが、実効性を伴わせるため、丁寧な説明を続けていかなければならない」としている。
◆ 母体保護法 =母体の生命と健康を守ることが目的で、一定の条件の下に不妊手術や人工妊娠中絶を認めている。1996年の改正で優生保護法から改称された。条件を満たさない中絶は本人や医師が刑法の堕胎罪や業務上堕胎罪に問われる可能性がある。