リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

強制不妊補償法が成立 前文に国の謝罪、本人に1500万円―中絶被害者も救済・旧優生保護法

時事通信 社会部2024年10月08日17時56分配信

強制不妊補償法が成立 前文に国の謝罪、本人に1500万円―中絶被害者も救済・旧優生保護法

写真キャプション:参院本会議で旧優生保護法下の強制不妊手術を巡る補償法が全会一致で可決、成立し、一礼する三原じゅん子こども政策担当相=8日午後、国会内
写真キャプション:参院本会議で旧優生保護法下の強制不妊手術を巡る補償法が全会一致で可決、成立し、傍聴席で口元に手を当てる原告の北三郎さん(仮名)(右から2人目)ら=8日午後、国会内


 旧優生保護法に基づく強制不妊手術の被害者らへの補償法が8日の参院本会議で全会一致で可決、成立した。前文に国を主体とする謝罪を明記。手術を受けた本人に1500万円、配偶者に500万円を補償し、人工妊娠中絶の被害者には一時金200万円を支給する。公布日の3カ月後から施行する。


補償法成立、周知が課題 識者「ワンストップの窓口を」―強制不妊

 補償法は、旧法の規定を違憲とし、国の賠償責任を認めた7月の最高裁判決を受け、訴訟に参加していない被害者についても救済を目指す超党派議員連盟臨時国会への提出を目指し議論を進めていた。会期が短く、提出見送りの可能性もあったが、成立にこぎ着けた。

 2019年に成立した救済法は、前文で「我々」が反省とおわびをするとし、謝罪の主体を国と明記していなかった。救済法の改正となる今回の補償法では、「国会および政府は、憲法に違反する立法行為を行い、これを執行してきたことについて、深刻にその責任を認め、心から深く謝罪する」とし、国の責任を明確化した。

時事通信社社会部 2024年10月08日07時03分配信

「一人ひとりを尊重する国に」 中絶2度強いられた女性 議連に経験証言・強制不妊

写真キャプション:旧優生保護法下で人工妊娠中絶を強いられ、手話で取材に応じる柴田邦子さん=2日、名古屋市


 8日に成立する見通しとなった強制不妊手術の被害者補償法は、これまで救済の対象とされてこなかった人工妊娠中絶の被害者にも一時金を支給するとしている。


 先天性の聴覚障害を持ち、2人の子どもを中絶で失った名古屋市の柴田邦子さん(84)は超党派議員連盟の会合で自身の経験を証言し、救済を訴えてきた。「一人ひとりを尊重する国になってほしい」と強く願っている。

 同様に聴覚障害を持つ夫と結婚した柴田さんは、27歳で第1子を身ごもった。中絶を強いられたのは妊娠5カ月の時。おなかが膨らみ始め、時に胎動を感じるようになっていた。

 女児と分かり、誕生を心待ちにしていた中、義母と夫の叔母が柴田さんに中絶を迫った。「生まれてくる子も耳が聞こえないだろうから、産んでは駄目だ」。抵抗したが聞き入れられず、開腹手術を余儀なくされた。

 その後に妊娠した男児は反対を押し切って出産。34歳で3回目の妊娠をしたが、「子どもは1人しか駄目だ」と再び中絶を強いられた。「産みたかった。とても悔しかった」とやり切れない表情を浮かべ、「周りは『堕ろしたほうがいい』と言う人ばかりだった。ろう学校の先輩らもほとんどが婚約や結婚を機に不妊手術を強いられていた」と振り返った。

 国は補償法に謝罪を明記し、中絶被害者に200万円を支給する。柴田さんは「謝って許されることではない。おなかから子どもを取り出された苦しみには見合わないと感じるのが本音。過ちを二度と繰り返さないで」と手話で力強く訴える。

 「障害の有無で命の選択をせず、一人ひとりの命を大切にしてほしい。障害者、弱者だからといってさげすむのではなく、みんなを尊重する社会になってほしい」。反省の下で作られた補償法の成立が、その一歩になると信じている。 

朝日新聞デジタル 10/7(月) 16:00配信

強制不妊被害の補償法案、衆院で通過 8日にも成立へ 謝罪の決議も

写真キャプション:衆院本会議で旧優生保護法補償金支給法案が可決された=2024年10月7日午後1時14分、岩下毅撮影

 旧優生保護法(1948~96年、旧法)下で、不妊手術を強制された障害のある人らへの「補償金支給法案」が7日、衆院本会議で全会一致で可決した。8日にも参院で可決、成立する見通し。最高裁が今年7月に旧法を違憲と断じた判決を受け、超党派議員連盟が法案をとりまとめた。衆院は7日、謝罪と被害回復のための決議をあわせて行った。

【写真】16歳に戻りたい「手術でなく支援があれば」 相談会で出会った因縁

 旧法は「不良な子孫の出生防止」が目的。旧法下で、不妊手術は約2万5千件、中絶手術は約5万9千件が、それぞれ実施されたとされる。

 2018年から国に損害賠償を求める訴訟が相次ぎ、19年に強制不妊手術の被害者に320万円を支給する「一時金支給法」が議員立法で成立。ただ、旧法が違憲で国に賠償責任があるとの前提に立っていなかった。

共同通信10/7(月) 11:15配信

強制不妊の補償法案、衆院通過 8日成立の公算大、1500万円

写真キャプション:旧優生保護法下の強制不妊手術を巡る被害補償法案を可決した衆院本会議=7日午後

 衆院は7日の本会議で、旧優生保護法下の強制不妊手術を巡る被害補償法案を可決した。一連の訴訟に参加していない人らが対象で、手術を受けた本人に1500万円、配偶者に500万円の補償金を支払う。併せて被害者に対する謝罪や差別の根絶を決議した。法案は参院に送付され、8日の本会議で成立する公算が大きい。

 法案は旧法を違憲とした7月の最高裁判決を受け、超党派議員連盟がまとめた。2019年施行の一時金支給法は、手術を受けた本人のみに一律320万円を支払う内容だったのに比べ、金額や対象を拡大した。

 前文には「国会および政府は、憲法に違反する立法行為と執行の責任を認め、心から深く謝罪する」との文言を盛り込んだ。本人や配偶者が死亡した場合、補償金は子や孫、兄弟姉妹といった遺族が受け取れる。旧法に基づく人工妊娠中絶手術を強いられた人には、一時金として200万円を支給する。

 被害者側が請求し、期限は法施行から5年。訴訟を経ないで迅速に対応するため、こども家庭庁に設ける審査会で被害を認定する。

Yahoo!ニュース Masaaki Niiyama映像ディレクター 2024/7/17(水) 16:19

下記に動画もあります!
戦後最大の人権侵害 "優生保護法"と闘った弁護士と被害者女性 なぜ悪法は放置されたのか?#令和の人権

 「戦後最大の人権侵害」といわれる障害者らへの強制不妊手術。その根拠となった旧優生保護法について、最高裁判所大法廷は7月3日、「立法時点で違憲だった」と厳しく断罪、原告の障害者らへの損害賠償を命じた。7月17日午後には岸田文雄首相が首相官邸で原告らに面会、「政府の責任は極めて重大なものがあり、心から申し訳なく思っており、政府を代表して謝罪を申し上げます」と述べた。旧優生保護法は個人の生殖機能を強制的に奪う明白な人権侵害に法的根拠を与え、1996年にその条項が削除されてからも、被害は長らく省みられることはなかった。その問題が社会に大きく取り上げられるようになったきっかけは、手術によって壮絶な嫌がらせを受けた飯塚淳子さん(仮名)と、弁護士として痛恨の過去をもつ新里宏二弁護士の出会いにあった。

Yahoo!ニュース ドキュメンタリー)


「世界を変える素晴らしい闘い」 

 7月3日午後、最高裁判所の前で「勝訴」の紙が掲げられた。旧優生保護法のもとで強制的に不妊手術を受けさせられたのは憲法に違反すると、障害者らが賠償を求めた上告審。大法廷は原告の訴えを認め、被害者の救済に全面的に道を開く画期的な判決を出した。

 原告弁護団の共同代表を務めた新里宏二弁護士は、満面の笑顔で被害者たちと抱擁を交わし、積年の思いを語った。

 「最高裁をも動かした、世界を変える素晴らしい闘いだった。国が差別を認めた。被害者が声を上げたから社会を変えることができた。勇気を持って声を上げることによって、ここまでたどり着いた。すばらしい闘いを当事者たちがして、それを弁護団も総力を持って支えてきました」

 原告の一人である飯塚淳子さんも声を震わせた。

 「今日は最高の日です。長い間、謝罪を求める会の人たちにお世話になりながら、ここまでやってきました。皆さんにはお世話になりました。本当にありがとうございました」

 それから14日。岸田文雄首相は飯塚さんらに会い、国の責任を全面的に認めて謝罪した。


「不良な子孫の出生防止」を目的に

 旧優生保護法は、戦後間もない1948年に議員立法で成立した。「不良な子孫の出生防止」を目的に掲げ、遺伝性の疾患がある人や障害者らに強制的に不妊手術を受けさせることを認めていた。背景には世界的に広まっていた「優性思想」に加え、外地からの引き揚げ者らによる急激な人口増もあった。

 優生保護法問題の全面解決を目指す全国連絡会によれば、この法律により、障害などを理由に不妊手術を受けさせられた人は2万4993人、人工妊娠中絶は5万8972人に上る。子宮・卵巣や睾丸の摘出など、優生保護法で定められていた範囲を超えて手術をされた人もおり、実際の被害者数はさらに多いと言われている。

 96年に母体保護法に改正され、優生手術についての条項は削除された。それから飯塚さんら被害者たちは、救済を求めて政府と交渉を始めた。だが、政府は「当時は合法」だったと取り合おうとせず、社会的な関心も高まらなかった。その状況を動かしたのが、飯塚さんと新里弁護士との出会いだった。


子どもを産めないことへの壮絶な嫌がらせ

 飯塚淳子さんは、1946年に宮城県で7人きょうだいの長女として生まれた。父親は船乗りだったが、片目を失明して仕事ができなくなった。飯塚さんは学校には行かずに、親の代わりに子守りや家事を手伝った。そんなある日、飯塚さんは民生委員により福祉事務所へ通告され、知能テストを受けさせられた。学校には行っていなかったので、テストの結果は芳しくはない。すると60年4月、知的障害者ではないのに、開所したばかりの知的障害者施設に入所させられた。卒業後は自分の意志とは関係なく、「職親」のもとに住み込みのお手伝いとして預けられた。「他人の子どもだから憎たらしいね、この子は」とホウキで背中を叩かれ、虐待を受ける日々が続いた。そして、17歳ぐらいのころ、その日を迎えた。

 「職親が私を愛宕橋近くの病院に連れて行きました。橋の下のベンチでおにぎりを1個食べさせられて、そして診療所に連れて行かれて。いつ麻酔かけられてたのかも覚えていなくて。ただ、目が覚めた時なんでしょうね。小さな洗面所が枕元にあって、お水を飲みたくて飲もうとしたら、看護師さんに『水は飲んじゃ駄目だ!』って言われたのはハッキリ覚えているんです」

 その後、たまたま実家に帰った時に両親の会話を聞き、不妊手術を受けさせられたと知った。そこから飯塚さんの苦しみが始まる。激しい腹痛に悩まされるようになり、妊娠できないのに生理が続いた。職親の元を離れ、18歳の時に上京。子どもが生まれる体に戻したくて何度も病院に行ったが、かなわなかった。

 子どもがいる幸せな家庭を築きたい。そう願っていた飯塚さんは、21歳で結婚した。子どもを産むことはできないと知っていたので、知人の紹介で養子を迎え入れた。色白で可愛らしい顔つきの男の子。飯塚さんはその成長を間近で見守り続けていきたいと思っていた。しかし、自閉症を患っていた息子は施設に入所し、その願いも奪われる。

 離婚後に再び結婚。優生手術のことを打ち明けると夫の家族から無理やり離縁を迫られた。30代で最後の結婚。「すごくいい人と巡り合った」というが、夫に優生手術のことを打ち明けると、周囲の態度が一変した。夫の職場の社長から「なんでお前ここにいるんだ、子どもを産めない奴は必要ねえだろう!」と罵倒され、耐えきれなかった夫は失踪した。飯塚さん自身も家から追い出された。「生きている意味ないだろ」「女ってのは子どもを産めなきゃ駄目だ」と、壮絶な嫌がらせを受けた。

 その後、支援団体とともに被害を訴えてきた飯塚さんが新里弁護士に出会ったのは2013年8月。仙台市で開かれた弁護士による無料の「なんでも相談会」でのことだった。多重債務の救済を中心に取り組んでいた新里弁護士は、旧優生保護法について当時は何も知らなかったという。飯塚さんの訴えを聞いて、「嘘だろ。そんな法律があったのか」と絶句した。それから勉強を始め、「優生手術に対する謝罪を求める会」の存在を知る。2週間後、再び飯塚さんから詳しく話を聞くと、飯塚さんから話を聞いた「求める会」の世話人から電話をもらった。新里弁護士は翌日には東京へ出向き、「求める会」から被害の全容をヒアリングし、国家賠償請求訴訟を考え始めた。


新里弁護士を動かしたある後悔

 新里弁護士がすぐに動き始めたのには、理由がある。かつてサラリーマン金融からの取り立てに悩む老夫婦が事務所を訪れてきたことがある。だが、新里弁護士はその日のうちに会うことができず、結果的に2人を自死へと追いやってしまったのだ。「2度と同じ過ちは繰り返してはならない」。新里弁護士には、そんな使命感がある。

 国家賠償請求には、乗り越えなければならない2つの大きな壁があった。1つは、手術や法改正から長い時間がたったことによる「時間の壁」。不法行為があってから20年の間に訴えを起こさないと、賠償請求権は消滅してしまう。2つ目は「証拠の壁」だ。民事訴訟では、訴えに関する事実は原告側が証明しなければならない。飯塚さんは1963年の1月か2月ごろに手術を受けたが、なぜか記録が載っているはずの62年度の優生手術台帳を宮城県は保管していなかった。

 そこで新里弁護士が考えたのが、日本弁護士連合会への人権救済申し立てだ。2015年6月、飯塚さんの証言や求める会の記録などをもとに救済を申し立てると、日弁連は17年2月、政府に対して当事者たちへの謝罪と補償を求める意見書を提出した。新里弁護士の思惑通り、意見書は新聞やテレビで大きく報じられた。ここで、新里弁護士が予想もしなかったことが起こる。報道を見た佐藤路子(仮名)さんから、1本の電話が寄せられたのだ。宮城県に住む60代の義理の妹が、10代で優生手術を強制されたと聞いている。もしかしたら優生保護法の被害者かもしれない、という問い合わせだった。

 佐藤さんは宮城県に情報公開請求を行い、17年6月に手術の記録が見つかった。こうして証拠の壁が乗り越えられたのを契機に、各地の被害者が訴訟を起こし始めた。


もし2人が出会わなければ

 飯塚さんの養子には軽度の障害があり、いまは働きながら福祉施設で暮らしている。飯塚さんも団地で一人暮らしだ。もし、優生手術を受けない人生を歩んでいたら、家族は一緒に暮らしていたかもしれない。

 「他人の子どもだからって、憎いとは全く思わない。子どもを不幸にさせてはいけない」と飯塚さんはいう。かつて民生委員によって職親の元に預けられ、実の子どもと比較されて虐待されたことがあった。この経験が心に深く刻まれているからこそ、自分の子どもには同じような不幸な思いをさせてはいけない。その一心で30年近く戦い続けてきたという。 


 一方の新里弁護士。最高裁では、こう弁論した。

 「被害者への共感と連帯が広がり、大きな流れとなって、地方裁判所高等裁判所の裁判官をも動かし、大法廷まできました。本件は被害者が声を上げることが社会を変える力になることを具体的に表しています。本件における最高裁大法廷の判断は、障害者権利条約や憲法が定める差別のない社会、全ての人が個人として尊重される社会への大切な一歩になります。そのためにも、最高裁判所におかれましては、自ら『創造の担い手』として、本件についてまことに正義と公平にかなう判断をされるよう求めます」

 2人が出会わなければ、今回の最高裁の判断は出なかっただろう。判決を前に、最高裁には全国から「正義・公正の理念に基づく判決」を求める33万3602通の署名も寄せられていた。

 一人ひとりの力が、社会を動かした。