リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

昨日出てきた島薗進先生の講演のレジュメに出てくる有元正雄さんの『真宗の宗教社会史』の抜書きを今さっき読みなおしていた。島薗先生は,中絶問題について,浄土真宗と結びつけて考える必要があると最近判明したとおっしゃっていたし,ウィリアム・ラフレール氏の『水子』の中の記述を高く評価していたようなのですが(わたしも訳者の一人なのに,こんなこと言っていいのかと迷いながらも……)3年前から浄土真宗が強い北陸という土地に暮らしているわたしとしては,先生が見てらっしゃる浄土真宗の“可能性”に,どうも引っかかるものがあったのだ……と気づいた。それは,島薗先生が有元さんの記述を借りてレジュメで伝えようとしている浄土真宗の「信仰とエートス」が,必ずしも女性たちを利するものだとは思えないからなのだ……ということに,ついさっき気づいて,思わず膝を打ってしまった。

真宗寺院率のきわめて小さい北関東諸国や美作国が人口減少に悩まされ,堕胎・間引きの禁令がしばしば出ているのに,真宗篤信地帯である北陸諸国や安芸国で人口増加がみられ,同禁令のみられぬ如き……

として,有元さんはどうやら真宗の信仰とエートスが,結局は国を利するのだと言ってらっしゃるようなのですが,上記に気づいてしまったわたしは,それがどーした,と思わずにいられない。

だってね,それで,その信仰とエートスによって,産むことを強要される女性たちは,本当に納得して,幸福に,産んでいたのだろうか……? と,疑問に思うからだ。

この疑問は,北陸のなかでも特に女性差別が厳しい(そして,かつてからの習俗が残っているとされる)(浄土真宗も根強い)能登半島における今もなお現存する嫁差別の話を聞いているからからこそ思い浮かんだことのような気がするけれども。

「宗教が」とか,「地域が」とか,「文化的差異が」とか言うとき,その中で暮らす男女の力関係は無化される。家の中での力関係は見えなくされる。それは,たとえばイスラム圏における女子割礼の倫理性を擁護する論理などにも感じる「疑わしさ」なのだ。女子割礼を「イスラムの文化だ」として擁護するとき,その“伝統”を我身に引き受ける女性たちの痛みや内心での恐怖や脅え,あるいはフーコーが言っているような生権力による内面からの支配は無視して,「伝統なんだからいいことだ」と言うのは,「ホントなの?」「弱い人に痛みを押しつけてない?」「で,その文化の中での偉い人たちは,いったい何をやっているの?」という疑問が出てくる。

どうしても文化的差異を言いたいのであれば,強者が痛みを背負えばいい。それでこそ,文化でございと胸を張れるのだと思う。だけど,弱者を痛めつけておいて,強者が「これは文化でございますから,放っておいてください」と言うのは,非常に間違ったことだと思う。

そんなことを考えてしまった……島薗先生の講演の主旨とは全く違う方向に話を持っていってしまったかもしれないけれども。

でも,言わずにはいられない。