リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

マグダ・ディーンズ著『悲しいけれど必要なこと』について,もともと仕事上の知り合いで尊敬している訳者の加地永都子さんと電話でお話しし,この本を訳したいきさつや当時の反響について伺った。この本自体は加地さんの持ち込みではなく,編集者がみつけてきたもので,訳さないかと打診されたのだという。なにしろ中絶に関する本が乏しかった当時,読んでみたらとてもおもしろかったので,さほど深く考えずに訳した。ところが思わぬ反響があって,この本について加地さんご自身が,何度もコメントを求められることになった。特に当時,「産む,産まないは私が決める」を主張していた運動関係の女性たちのあいだでは,かなり「ショッキング」な内容として受けとめられたという。「日本では中絶に関してゆるやかだったから」と加地さんはいう。「できちゃったらおろすといった感覚だった人たちも,中絶をシリアスに受けとめるようになった」。

加地さんにもお伝えしたのだけれど,「悲しいけれど必要なこと」というタイトル自体が,水子供養の広まりともあいまって,1980年代以来の日本人の中絶観にかなり影響しているのではないかと,わたしは考えている。中身を読まずに感傷的な本だと思いこんでいる人も少なくなさそうだ。

加地さんに,つい2日ほど前,amazon.comを"abortion"で検索したときに,何万件もあるアメリカの中絶本のうち今でも60数冊目に挙がってくる本であること,プロライフによく引用されていることを伝えると,ずいぶん驚いてらしたが,すぐにピンときたようだった。インタビューで構成されたこの本のなかには,筆者自身の考えとは正反対のものも多く含まれるし,それ以上に,ディーンズの考察は,あまりにも深い……浅薄な権利論ではなく,人間が生きていくうえでの両面価値や矛盾,それでも「選び取っていかねばならない」という辛い決断を引き受けていくことなどが盛り込まれている。

加地さんご自身は,アジアの問題を長くやってらっした方なので,女に生まれたというだけの理由で女たちが置かれてしまう「悲惨」な状況への怒りもあって訳されたようだ。だがおそらく,この本は1976年のアメリカのプロチョイスにはあまり歓迎されなかっただろう。ディーンズの考察は,たぶん早すぎたのだ。

しかし,1990年代の特に半ば以降,プロチョイスのなかでも“It's a baby.”と認めるべきだという議論が起きていることを考えれば,ディーンズの議論は時代を先取りしていたのだとも言える。だからこそ,アメリカではいまだに読み継がれているのかもしれない。(とはいっても,新版は出ていないようだ。)またこの本は,当時を知るための貴重な歴史的資料でもある。

ただ,日本でこの訳本が出たタイミングが正しかったのかといえば,個人的には疑問が残る……加地さんも嘆いてらしたけど,中絶問題を扱っている研究者はあまりにも乏しい。最近は“若い人たち*1が中絶問題を取り上げるようになってますよ……とはお伝えしたけれど。

わたしは谷間の世代なので,ちゃんと橋渡ししていかなくちゃいけないな,とも思ったりした。

*1:こう言ってしまうのは,自分が“もう若くない”証拠かしらん(苦笑)