リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

累積的な抑圧体験

ゲンダイ2019.10.8:炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根)

標題、とても印象的な言葉です。いろいろ考えさせられました。
炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(2/9)

WEB世界に、次の論考も特別掲載されていました。
表象はなぜフェミニズムの問題になるのか 小宮友根
2019.11.21

 ミランダ・フリッカーというフェミニスト哲学者は、マイノリティが被る不正義の一種として、近年「認識的不正義」という概念を提案している[ix]。これは大まかに言えば、マイノリティの抑圧的経験を表現するための資源が社会の中に不足していることから生じるタイプの不正義である。
 たとえば、「女性のNOはYESを意味する」とか「男性の部屋に女性が一人で行くことは性交への同意を意味する」といった考えが広まっている社会では、性暴力被害者の女性は自分の被害を十分認識してもらうことができないことがある。同様に「セクシュアル・ハラスメント」という概念が生まれる前は、女性は職場で性的な扱いをされることで不利益を被っていても、それが「悪いことである」という認識を十分に持つことができなかった。そうした状況は、直接暴力を振るわれたり差別的取り扱いをされたりする「不正義」とは違うが、しかしそれらの被害をそもそも被害として認識することが難しくなっているという「不正義」の状況である。
 先に述べた累積的問題という女性表象の経験は、おそらくこの認識論的不正義の問題と関わりがある。女性とケア労働を結びつけたり、女性の身体をもっぱら性的な対象として扱ったりすることは、性別分業やセクシュアル・ハラスメントの問題を成立させている「女性の意味づけ」でもあるがゆえに、その同じ意味づけが表象の中で「ここでもまた」繰り返されていると感じることは、そうした問題を問題として認識するための資源の不足として感じられるだろう。女性に対する同じような意味づけばかりが溢れていることは、そのこと自体が「認識的不正義」の状況として理解されうるのである。