リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

出産育児一時金の拡充が大幅に進むなかで、厚労省と日母のそれぞれの主張の変遷

早く続きが読みたい……

国際比較からみた日本の出産サービスの特徴と課題-予備的検討
竹沢純子 - 厚労科研報告書, 2021 - ipss.repo.nii.ac.jp

 Fukuzawa and Kodate(2015)では出産給付について「妊娠出産は病気ではないという考え方にもとづき、正常分娩は自由診療で健康保険の療養給付の適用外」であり正常・異常分娩を問わず出産育児一時金が支給されることについて言及している。しかし、正常分娩が療養給付の適用外であり、さらに指摘されていないがその費用相当が出産育児一時金として現金支給されることが日本の特徴であるとの指摘は行っていない。この点を指摘した小暮(2016)によれば社会保険によって医療保障がなされる多くの国において分娩は現物給付対象であり、ドイツ、フランス、韓国の事例を挙げている。
 わが国においてなぜ出産が療養の給付の対象から外され出産育児一時金として現金給付形式がとられてきたのか。出産育児一時金の制度変遷は表4、先行研究は表5の通りである。1990 年代の研究においては〔橋本(1993)〕「出産が療養の給付の対象から外されてきたのは,日本の医療保険が,歴史的に療養に伴う特別の出費を補填する所得補償として発達してきており,「療養」が狭義に解釈されてきたため」と考えられており、これは当時の厚生労働省保険局による「出産は傷病ではない」という答弁と同じであった。この「傷病ではない」ために出産は現物給付対象外であるという通説を疑った小暮(2016)は、健康保険法が成立した戦前期に着目し、創設当初は現金給付、その後現物給付方式の時期もあったが、戦時下の出産奨励の手段として産院での分娩が推奨され再び現金給付に戻り、戦後も継続し現在に至ることを指摘した。ではなぜ戦後において現金給付が維持されたのだろうか。

 大西(2014)はその理由として 3 点を挙げている(表5)。第一に、GHQ による分娩の施設化への誘導により、1960 年までに日本において急激に出産が施設化された帰結として都市部と郡部における出産の「二重構造」が発生し,現物給付化に際する出産経費の全国標準化が困難であったこと、第二に 1960年から 1970 年の「二重構造」の解消過程における母子健康センターの増加を契機に,それ以後,日本母性保護医協会(日母)は正常分娩が診療報酬点数化された場合に「助産婦レヴェル」の点数に統一されることを危惧し反対したこと、第三に 1980 年代以降は出産の医学管理化が進行したにもかかわらず「正常分娩は自然現象」であるとの前提に基づき診療報酬の点数は極めて低く抑えられるであろうことが予測され,日母が現状維持を働きかけ続けたことである。これらの理由により、日本の出産給付は定額金銭給付の増額をもって既存の制度を維持強化することによって対応してきたという。
 大西(2014)は戦後における現金給付の維持は、政府厚生省と開業医団体の間の「政治」の産物であることを明らかにした点で評価できる。しかし同研究においては、上記の 3 点目として 1980 年代以降を一括でとらえ、少子化対策以前(1980 年代以前)と少子化対策以後(1990 年代以降)の変化について十分に説明されていない。少子化対策以前・以後で、出産給付は医療政策(健康保険)から医療政策と少子化対策にまたがる政策課題へと変化したことによって、政府厚労省のスタンスや産婦人科医団体のスタンスと両者の緊張関係はどのように変容したのかが明らかではない。1980 年代以降の時期には厚労省と日本母性保護医協会(日母)は相反する関係にあった。厚労省は「正常分娩は自然現象であり疾病ではない」という理由から正常分娩の費用を助産師レベルに抑えようとしたのに対して、日母は反対の姿勢を貫いた。一転して 1990 年代以降に少子化対策が政治の最重要課題となり出産育児一時金の拡充が大幅に進むなかで、厚労省と日母のそれぞれの主張がどう変わったのかについては今後の課題とする。