リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

全ての人のSRHR:なりたい自分になる自由を!

国際セーフアボーションデーの一連の活動を通じて気づいた大切なこと

私がRHRを使い続けてきたのには意味がある。少なくとも国際条約の中で中絶に関する情報とケアの保障について語られる場面では、妊娠しうるからだをもつ当事者の権利からブレた議論にしてはならないと考えてきたので、あえてSexualという形容詞は省くことで、議論のポイントがずらされないようにしてきた。


でも、そうやって焦点を絞った議論をすることと、視野を広げて多様な人々と手をつないでいくことは、どちらも重要なのだと昨夜、強く思った。政府に対して「すべての人のSRHRを守れ」ということと、「安全な中絶ケアを提供しろ」と言うことは相反しないし、中絶経験者同士の連帯を呼び掛けることと、あらゆるSRHRの問題に取り組んでいるすべての人々との連帯を呼び掛けることは、どちらも重要なのだと。


問題を具体化し、可視化していくことはもちろん重要だ。「経口中絶薬のアクセスを改善せよ」とか「緊急避妊薬を薬局で販売せよ」とか、「同性婚を認めよ」とか「夫婦別姓を認めよ」といった要求は大切だ。でも、だからといって「別のこと」をやっているわけではない。誰かが言っていたけれども、こうした個々の問題は「地続き」なのだ。


先日、ニューヨークタイムスに「なぜ保守派は中絶とトランスの権利を同じように攻撃するのか?(仮訳)」というタイトルの記事が載っていたことを思い出した。その中に、「中絶とトランスの権利は、ある意味、同じコインの裏表のようなものであり、身体の自律性とは何を意味するのか、私的で身体的な自分自身について、個人がどのような選択をすることができるのかという核心に関わる問題だからだ。」とあって、思わず膝を打った。これを書いたJennifer Finney Boylanは、大学教授で15年の活動歴をもつトランスジェンダー・アクティビストだという。


そこからの連想で、かつて翻訳にたずさわったドゥルシラ・コーネルの『イマジナリーな領域』を思い出した。大学院で副査だった仲正昌樹先生に声をかけて頂いて中絶に関する章の翻訳を担当したのだけど、正直、とても難しかった。ただ、仲正先生に「要は、なりたい自分になる自由を妨げられてはならないということですよね?」と質問し、そうだと言われたのを覚えている。


その後、中絶についてあまり観念的に考えることはなかったのだけど、LGBTQ+の問題だって、夫婦別姓の問題だって、当人たちが「なりたい状態」「そうありたい関係」を第三者に妨げてられているということが、「人権」問題なのだ。当人が自分の身体について、自分の関係性について、自分自身のありようについて、「決定できない」ように縛りをかけてくることが問題なのだ。もっと自由を! もっと安心を! もっと安全を! もっと権利を! わたしたちから幸せを奪わないでください!


一昨日は世界避妊デー、今日は国際セーフアボーションデー。どんな機会にも叫ぼう。すべての人のSRHRを大切に❣