リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

拙著『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ』(2012)

第6章 人権としてのリプロダクティヴ・ヘルス&ライツ

入稿原稿から、この節だけ取り出してみた。もはや12年前の文章で、抜けている重要事項もあるけれど、根本的な考え方はそれほど変わっていないように思う。

7 ライツからジャスティスへ

 多様な各国の状況の中でリプロダクティヴ・ヘルス&ライツを実際に推進していくために,その国の女性運動が重要であることは,ドロシー・マクブライド・ステットソン(Dorothy McBride Stetson)等の研究で明らかにされている(Stetson [2001])。彼女たちは,欧米の民主主義国10か国の中絶をめぐる政策と運動の動向に関する調査を通じて,リプロダクティヴ・ライツにまつわる国際的な合意が各国の政策や具体的な医療制度に生かされるかどうかは,国内の運動のありように大きく依存していることを示した(Stetson [2001: 295])。彼女たちの比較研究では,たとえ政府の担当局が充分に機能せず,保守的な政権下であっても運動が強力である国では成果を上げることができた一方,逆に運動側が主権を握っていない国の場合はなかなか成果を上げられないという傾向が見られたのである(Stetson [2001: 295])。同様に,リプロダクティヴ法と政策センターの著者たちも,各国政府がリプロダクティヴ・ライツ(RR)を初めとする女性の人権を推進するようになったのは,「世界中の女性の権利の提唱者たちの活動のおかげ」だと述べ,RRを推進するには「あらゆる社会領域での女性の権利のための活動」が不可欠だとして,運動の重要性を指摘している(リプロダクティヴ法と政策センター [2000→2001: 227-8])。
 先に見てきたとおり,リプロダクティヴ・ライツという概念が登場したこと自体がグローバルな女性運動の成果であったし,そうした運動を下支えしていたのは,安全で確実な避妊や中絶など望まれない妊娠の解決策としての生殖コントロール技術であった。そうした解決策が存在するようになって初めて,女性たちはその解決策についての具体的なエンタイトルメント意識を抱けるようになった。その一方で,たとえ安全で確実な生殖コントロールの方法が存在していても,国家がパターナリスティックな介入によって間接的または直接的に禁止したり強制したりすることで,女性たちはエンタイトルメント意識を抱けなくなり,結果的に自由な選択も保障されなくなる。
 女性運動の重要性は,技術導入の側面では一見世界をリードしていたような国々において,実際には女性の権利が軽んじられていたという事例からも明らかである。たとえば,政治学者ダグ・ステンヴォル(Dag Stenvoll)によれば,共産主義下にあったポーランドルーマニアソ連などの東欧諸国では,早くからオンデマンドの中絶が実現していた。これらの国々では,避妊は「不自然で,効率が悪く,危険なもの」として広まらなかった一方で,中絶は「伝統的で,安全で,アクセスしやすく,相対的に安価」で「抜歯のように不快」ではあるが当たり前の「医学的処置」として定着したのである(Stenvoll [2007: 23, 26])。だがステンヴォルによれば,それらの国々の政策は,避妊の知識や手段を伴う現代の西欧や北米におけるリプロダクティヴ・チョイスとは無縁のしろものであった。たとえばロシアでは,中絶を避妊代わりに用いる慣行が続く一方で,公立病院で安く手軽に受けられる中絶ケアの中身は劣悪だったと言う。そこで,ロシアの女性たちは欧米の女性たちのように「中絶の自由を求めて闘う必要はなかったが,その分,中絶医療をもっと人道的なものにするよう求めて闘わねばならなかった」(Stenvoll [2007: 23, 26])。こうした事実から,女性運動によって,安全な避妊や中絶の手段を求めていくのと同時に,より人道的で女性を尊重した制度も求めていく必要があることに気付かされる。
 すでに述べてきた通り,リプロダクティヴ・ヘルス&ライツ(RHRR)は普遍的な人権だと宣言された。しかし,獲得したはずの権利が「絵に描いた餅」で終わっては意味がない。法学者のリン・フリードマン(Lynn Freedman)が警告するように,リプロダクティヴ・ライツは「何もない真空状態の中で自由に選べること」ではないし,そうあってはならない(Freedman [1995: 1086])。仮に「選択権」が万人に与えられたとしても,階級や年齢,人種,民族,文化等による社会的な不平等の現実がそのままでは,不利な立場の人々にとって「自由な選択」は実現不能なものになる。この権利と現実のギャップの問題に取り組むために,非白人の女性たちの一部は,リプロダクティヴ・ジャスティス(Reproductive Justice: 略RJ)という新しい概念枠組みを提唱し始めた。彼女たちは中絶の権利に終始しがちなRRを超えて,女性の生殖能力やセクシュアリティを規制し,制御し,罪と関連付けることと,彼女たち自身が基盤としている人種や階級,ジェンダーセクシュアリティナショナリティーの共同体の規範とが結びついているとの認識に立つことから,この枠組みを採用するようになったのである(Silliman et al. [2004: 4])38)。この新しい動きについて,紹介していこう。
 RJの概念を最初に定義したのは,「リプロダクティヴ・ジャスティスのためのアジア系共同体」(Asian Communities for Reproductive Justice: 略ACRJ)だと言われる39)。ACRJによれば,リプロダクティヴ・ジャスティスとは「女性の人権を全面的に達成し保護することを基本にした女性および少女の完全な身体的,心理的,精神的,政治的,社会的および経済的ウェルビーイング」が達成された公正な状態のことであり,そうした状態に置かれていない人々が公正を求めて集合的に働きかけていくことを彼女たちは強調する。つまりRJとはある形態の活動(activism)の総称である。ACRJのアクティヴィストたちは,リプロダクションに関する課題を推進していくために,社会正義を求める他の様々な運動と連携していく必要性を特に重視した。
 RJの運動では,女性が自らの生殖に関する決定を下せるかどうかは,彼女が暮らす共同体の状況に直接結びついているという観点で分析が行われる。ここで言う共同体の状況とは,彼女一人の選択や彼女自身が資源にアクセスできるかどうかといった問題に留まるものではない。RJは,社会的な不平等が存在している現実の中で生起している具体的な問題に注目し,とりわけ,自分自身の妊娠の行方を自分で決められるような機会が,どの女性にも均等に与えられているわけではないことに目を向けるのである。この枠組みでは,プライバシーの要求や個人の意思決定の尊重を超えて,個人の意思決定が最適な形で実現されるために不可欠な社会的支援の提供まで踏み込んでいき,そうした支援が提供されるように,それぞれの国の政府に対し,女性の人権保護の義務を遂行するように求める行動も行っていく。また,女性たちが(たとえばリプロダクションについて)選択を行う場面では,どの選択肢を選んだとしても,常に安全(safe)で,容易に手に入り(affordable),利用しやすい(accessible)ものでなければならず,この三つの要件があらゆる個人の人生上の決定について保障されるよう,政府の支援を求めるのである。
 リプロダクティヴ・ジャスティスの提唱者たちが特に問題としているのは,中絶の問題が,経済的不公正の問題や環境問題,移民の権利問題,障害者の権利問題,人種や性的指向による差別の問題といった他の社会正義の問題から切り離されてしまいがちなことである。だが実際は,そういった社会正義の問題は,ある個人の女性の意志決定の過程に直接的に影響を及ぼしている40)。
 そこで,ADRJはリプロダクションにまつわる抑圧と闘うために,次の3つの素朴な枠組みを示して不公正をなくすRJの運動に取り組み始めた。

1.リプロダクティヴ・ヘルス――サービスの提供に取り組む
2.リプロダクティヴ・ライツ――法的問題を提起する
3.リプロダクティヴ・ジャスティス――この運動そのものを構築することに焦点を合わせる

 具体的な運動を実施していくために焦点を絞って提示されたこの枠組みについて,シスターソング非白人女性生殖の健康集団(Sistersong Women of Color Reproductive Health Collective)のロレッタ・ロス(Loretta Ross)は,究極的にいかなる運動でも「サービス」「アドヴォカシー」「組織化」は不可欠だと述べてこれを支持している(Sistersong Women of Color Reproductive Health Collective et al. [2007: 4])。
 リプロダクティヴ・ジャスティスの枠組みで物事を捉えられるようになった女性や少女たちは,最終的にそれぞれの家庭の中で力を発揮できるようになるであろう。RJの立場からの分析では,常に女性や少女が置かれている現実を直視する中で中絶や避妊を論じることが目指されている。彼女たち自身にとってのより良い生活とか,より健康な家族とか,共同体の持続といった具体的な〈成果〉に焦点を合わせているのである。RJは女性たちや少女たちや共同体を組織化し,総合的かつ変革的にエンパワーメントしていくプロセスを通じて,構造的な〈権力の不均衡〉に挑戦していくことを重視する。そこでは,まさに「個人的なことは政治的」になるであろう。
RJの議論を見ていて気付かされるのは,多様な諸権利が相互に関わり合う中で,特に女性の権利が実質的に保護されているかどうかという点が重視されていることである。ただし,そこで大切なのは,ある個人についてある一つの権利が保障されたかどうかだけではなく,構造的に不公正(injustice)のあるシステムに根ざした不正(abuse)が生じていないかどうかに注意していくことなのである。具体的に言えば,自分が妊娠していることに気付いたある女性が,「産むこと」と「十分に(自分の望むような方法で)育てること」が実質的に不可能だと考えざるをえない社会状況に置かれていると判断し,それゆえに「産まない」ことを選択したとすれば,それは彼女にとって「権利の遂行」とは言えず,むしろ選択の強制にほかならないと考えるのである。そう考えることで,彼女が実質的に「選択権」を十全に遂行できるように,社会制度の変更を求めていく必要性が生じる。
さらにRJの立場からすると,上記のようないわば「強制された産まない選択」をすることで,仮にそうした選択がその社会で「常識」とされる「理想の母性像」と相反するがために彼女の心理的・精神的な健康が阻害されるのであれば,そうした「常識」も変えていく必要がある,と考える。RJの視点からすれば,そこで必要とされているのは,彼女に「真に自由な選択肢」を与えるための支援である。さらに,産む産まないのジレンマそのものを防止するための措置(たとえば性教育や避妊指導)が不十分であるのなら,そこも変えていかねばならない,と考える。つまりそこで求められるのは,「女性や少女」のおかれている今の社会の問題を非常に総合的に捉え,かつ具体的に一つずつ,変革を求めて働きかけていくという根気のいる作業なのである。それは個人の能力の限界を超えているため,この変革を実現していくためには大勢の力を結集した持続的な〈運動〉が不可欠であろう。
 RJのような草の根の,しかし壮大な女たちの〈運動〉が必要であるのは,歴史を通じて,人間の諸権利について政治的判断を下すような重要な場面に女性が登場することが,ごく最近まで非常に稀であったことの裏返しである。国家の直接的な人権侵害から人々を守ることを優先した人権保障のアプローチの中でさえ,男性が定義した文化的,家族的,宗教的権利を保護するために女性の人権が犠牲にされることがしばしば生じてきた41)(Bunch and Reilly [1994: v, 3])。ただし,女性のアクティヴィストたち,特にフェミニストの女性たちは,自らの被抑圧の経験ゆえに,性による抑圧や差別が解消されることを求めながらも,そのためにほかの誰かの人権が犠牲にされることは許さない。その点がフェミニストの運動に特有の困難さを内包させる結果にもなっているのだが,だからこそ「個人」や「人権」の見方そのものを転換し,新たな人間観を提示する可能性ももたらしている。たとえば,最近のフェミニストの人権運動や健康運動では,「自己」を「結ばれた自己」(connected self)として構築し,理解する作業が進められている42)。
フリードマンによれば,そもそもリプロダクティヴ・ライツを求める運動は女性の人権運動と女性の健康運動が合流したものであるが,この二つの運動は時に重なり合いながら平行して進んでいくうちに,新たな「自己」像に行きつくことになった(Freedman [1995: 1086])。たとえば,第三世界の女性の視点から開発を問う研究者や活動家の団体である「新時代に向けた女性の開発オルタナティヴ」(Development Alternatives with Women for a New Era: 略DAWN)の綱領には,「女性のリプロダクティヴ・ヘルスを総合的な人的開発の枠組みの中に置き,そこではすべての人々のウェルビーイングと女性の完全なシティズンシップが促進されなければならない」とあり,人々と個人の「二重のレンズ」で捉えていく必要性が示唆されている(Petchesky and Judd [1998: 4])。このように,フェミニストの運動には個人を具体的な他者との関係性の中で生きている存在として捉える見方がしばしば特徴的に現れる。RHRRの運動にも,RJにも,そうした見方が通底している。
RHRRにせよ,RJにせよ,フェミニストたちは,一人一人の人間を「各々が権利によって守られ,単体の身体をもち,世界から切り離された個別的で孤立した自己」と見なすような世界観を乗り越え,社会的にも,身体的にも「結ばれた自己」として構築し,かつ理解するプロセスに乗り出している。これはまさしく次章で述べるフェミニスト倫理に特徴的な人間観でもある。もしかしたら,「結ばれた自己」とは,「妊娠」という非常に特殊な「自―他」の体験に根差した――あるいは,そのような体験をしうる者としてジェンダー化された――存在として必然的に行きつく人間観なのかもしれない。この新しい洞察はまだまだ吟味していく必要があるが,次章の最後で中絶との関係で再びこの新しい「自己」のあり方を検討することにしよう。
38)著者らはRJをRRと交換可能な概念として用いながら,women of colorの新しい運動形態として紹介している。
39)以下,RJに関する説明は,Sistersong Women of Color Reproductive Health Collective et al. [2007]による。
40)日本であれば,シングルペアレントや非嫡出子への差別の問題,女性の平均的な所得が男性に比べて非常に低いことなども大きく影響しているだろう。
41)1993年のウィーン人権会議の際に女性の人権のためのグローバル・キャンペーンが実施した「ジェンダーに基づく人権侵害」に関する証言の記録は,Bunch and Reilly [1994: 17-92]を参照。
42)フリードマンによれば,この見方をペチェスキーらは「統合原理」と呼んでいる(cf. Freedman[1995: 1086])。