リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

ノンフェミニストの中絶論における胎児の位置づけ

もう患者でいるのはよそう: フェミニスト倫理とヘルスケア スーザン シャーウィン (著) 勁草書房 1998年

抜き書き

 フェミニストの視点からすると、妊娠についての中心となる道徳問題は、妊娠が女性の身体のなかで生じ、かつそれが女性の人生に深い影響を与えるということである。ジェンダーに中立な妊娠の考察などはできない。妊娠は明らかに女性の身体に生じる状態だかrである。中絶の必要性を経験するのは女性だけであるから、中絶の政策は女性に特有の影響を与える。だから、中絶に関して出された政策が、女性の抑圧という一般的状況とどうかみ合うかを考えることは非常に重要である。ノンフェミニストの評価とは違って、フェミニスト倫理は、中絶政策が女性の抑圧にどう影響するかを、中絶の倫理的評価の中心におくべきだと考えている。


胎児
 フェミニスト倫理とは対照的に、ほとんどのノンフェミニスト分析家たちは、中絶が道徳的に受け入れられるかどうかは、すべて胎児の道徳的地位の問題によると考えている女性の中絶選択権を支持する人たちでさえも、胎児が完全な人格性(パーソンフッド)を欠くことをまず証明できなければ、中絶は容認できないとする点で中絶反対派と同じ前提に立っている。中絶反対派は、胎児の地位は他の人間と同じに価値があるから殺してはいけないのか、それともまったく価値がないか、どちらかをはっきり規定するべきだと主張している。中絶擁護派のほとんどはこの論理に挑戦するよりは、一貫して胎児には重大な価値がないことを示そうとしてきた(Tooley 1972; Warren 1973)。また、L・W・サムナー(1981)などは、胎児の発達は漸次的なもので、初期の段階では人格性の基準に相当するものがないけれども、後期になるとそれが見られるというより微妙な説明を行っているこのように、中絶反対派と支持派の間で激しいやりとりが行われ、中絶反対派はあくまで胎児を〈無垢〉で、傷つきやすく、同等的に重要な独立した存在と見なし、その生命が聞きに瀕している以上何とか助けなければならないと考えているのに対し、中絶支持派は対峙はある重要な点が書けているので道徳共同体(moral community)の範囲外にあると主張している。しかしどちらの立場でも、母体から切り離された胎児をどうとらえるかが中絶の道徳的地位を決めるとされている。
 以上のような議論では、女性は対峙が生きる上でなくてはならないにもかかわらず、(考慮されることがあったとしても)二次的なものとみなされている。現実の女性の経験や責任は、議論には同t公的に無関係だとされている。ただし、妊娠がレイプや近親相姦によるもので、胎児と同じように女性も無垢だと証明されれば、話は別である。場合によっては、妊娠における女性の役割は文字どおり、〈胎児の容器〉にさせられている。個々の女性は消え失せてしまうか、ただの機械的な生命維持装置と見なされてしまっている。(pp.82-3)