リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

中絶したとたんにヒト意識になる

中野東禅 『生と死を学ぶ教室「別れの手紙」』

著者が仏教系女子大の四回生の生命倫理の授業で行った「自己シミュレーション」の作品とのこと。課題は人工妊娠中絶、人工生殖、遺伝子操作などの3つから1つを選び、短編小説風でもよいということで自分がどう行動するかをシミュレーションするとのこと。その中で2つ中絶に関わるストーリーがありました。そのうち一つを著者のコメントも付けて紹介します。

中絶したとたんにヒト意識になる
Cさんの感覚

 自分ではなく、周りの人が妊娠したら、子供の生存権を主張して中絶に反対するが、自分のことだったら中絶をしてしまいそうです。今の自分の生活の質(QOL)を犠牲にして子供を産んでも結局その子を幸せにできないからです。
 ただ、出産の痛みや、喜びを感じたことがないからかもしれないが、自分の子供と自覚していても、私にとって胎児はヒトになっていない感じです。
 しかし、中絶した瞬間から、ヒトとしての意識になり、殺してしまったという負い目や罪意識が発生し、水子供養を行い、同じ過ちを繰り返さないように心に決めるだろう。
 これが自分の率直なところです。自分の立場を尊重して実行する前に「それでいいのか」と疑問を持ち、後悔しないように、責任ある選択をすることの必要性を感じる。


 この学生が気付いていることは、おなかの赤ちゃんは実感として遠い存在だが、中絶をしたとたんに、その子はヒトとなって自分にのしかかってくるということです。この視点はなかなか気付かないことです。人工妊娠中絶は簡単にしておいて、あとで水子供養に走る人の「負い目」がここから始まると考えると納得できるものがあります。


 まずこの著者は無自覚に「お腹の中の赤ちゃん」を持ち出しています。受精卵が着床し、育っていって、やがて「胎児」になる……といった知識もなく、妊娠=お腹に赤ちゃんがいる状態だと考えているのでしょうね。生命倫理学者には、妊娠=生命=赤ちゃん、中絶しない⇒誕生する(流産する可能性など微塵も考えていない)と短絡させてしまう人が少なくありません。また、中絶よりも妊娠を継続して出産に至る方が何十倍もリスクが高いことも知らない人がよくいます。
 この著者は中絶に関して「絶対的生命尊重」と「QOL」、あるいは「生命の尊厳性」と「人間の欲望・都合」の二項対立でしか捉えていません。この本が出たのは2001年ですが、「現在の女性学生は、かなりの割合で、性行為体験があり、なくても違和感が少ない」としており、「中ねん以上の人が感じるような抵抗感はなく、妊娠についても、人工妊娠中絶についても、かなり日常的なこととして身近なことのようです」とも書いています。次のようなことも書いています。

 それほど日常化している若者の性体験・妊娠体験・中絶体験の中でのシミュレーションですから、人工妊娠中絶が法律違反であるとか、人間の良心に照らして罪であるとか、死生学、生命倫理学に照らしてみるとかより先に、日常的感覚が先に立つということがよく分かります。


死生学や生命倫理学が「日常的感覚」から外れたものであることを自ら暴露しています。学問って生きた人間に役立つものではないのでしょうか。