リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

最新の生命倫理学の本でさえ……

先週、京都に招いてくださった方から、「これくらいは押さえておかなければだめだ」と言われた新しい“生命倫理学”の本が県立図書館にあると分かったので、チェックしに行った。「少しは議論に進展があったのかな〜」と期待していたから、読んで、愕然とした……少なくとも、胎児中心主義からはあいかわらず一歩も抜け出ていない。リプロダクティヴ・ライツとプロ・チョイスとアボーション・ライトの議論が、全部ごっちゃにされている。ひとつ進展があったとすれば、「胎児の位置付け」について整理されたということくらいか。しかし、こうやって整理したことで、「あ、自分はここだ」と自分の態度を確認して、その態度の裏にあるものを検証することなく自己弁護に走るようになってしまうのであれば、百害あって一利なし。「中絶問題は自らの痛みを伴うので、人はさっさと立場を決め込みがちだ」とキャラハンが批判していた状況が単に繰り返されるばかりであろう。

ところで、キャラハンの上の言葉は、記憶に頼っているので正確ではないが、論者側に「痛み」を生ずるから……といった話であったことは間違いないように思う。彼の言う「痛み」は、一つの命が奪われることに対する痛みも含まれるが、それだけではない(それだけであれば、プロライフ派のように「中絶する女性」のみに怒りをぶつけて、自らの責任については知らん顔を決め込むこともできる)。キャラハンのいう「痛み」は、中絶を選ぶ女性たち自身の「傷」や「自傷」を知っている者ゆえの痛みでもあり、また“第三者としての自分が何もできない”痛みでもあるのだ。しかし、これを「痛み」という言葉で表現することによって、見落とされるものがある。単に中絶の話をされるのは「居心地悪い」男性も少なくないはずだから。後ろめたさ、勘弁してくれよという気持ち、知ったことかという(理不尽な)怒り……。ここで言っているのは、もちろん、現実の話として、意図せぬ妊娠をさせてしまった恋人や妻に自分自身がどう対応するのか、したのか……といったレベルでの話である。そこで彼女たちとの関係のあいだで感じる「痛み」は、キャラハンのいう「痛み」とはまた別の話だろう。しかし、本当に関係がないと言い切れるのだろうか? 

日本ではいまだに年間約30万件の中絶が行われている。それだけの数の女性が中絶を受ける影に、それだけの数の責任ある男性たちもまた存在していることを忘れてはならない。