2月9日現在、asahi.comにも以下のような関連記事があったのを見つけました。
オバマ大統領、妊娠中絶を容認 前政権から方針転換
2009年1月24日10時49分
【ワシントン=小村田義之】民主党のオバマ米大統領は23日、妊娠中絶を支援する団体への連邦予算の拠出制限を、解除する大統領令に署名した。これに伴い、保守派が「中絶に使われている」と主張してブッシュ前政権時代に中止されていた国連人口基金への予算拠出も、再開する意向を表明した。
オバマ氏は声明で、この問題について「政治問題化に終止符を打つ時だ。家族計画に関する新鮮な論議をし、世界の女性のためになる一致点を見いだす」としている。
保守派の反発をあおらない意図からか、大統領令への署名はメディアに公開されなかった。キリスト教保守派の指導者からは「世界の胎児への拷問を輸出する命令だ」と反発の声があがっている。
論文の中でも触れたのですが、「fetus」という言葉が喚起する“構築”に注意する必要があると、わたしは考えています。胎児は受精の瞬間から(すでに生きている人々と同種の)生命だとするキリスト教的な胎児観しかありえないのか……と言えば、それは違うように思われます。重い月経のときに経血に混じっている塊を見たことのある女性もいるでしょう。そうした血の塊が着床し損ねた受精卵だったかもしれないと気づいたとき、わたしは小さな驚きとともに、生命への愛おしさのようなものがこみあげてきたけれど、それは「赤ちゃんが死んだ」という悲しみとはべつものでした。
「胎児への拷問」という言葉からは、すでに赤ん坊のようになった「胎児」に対する残虐な加害行為が想起されます。ます実際に行われている中絶の大半が、ごく初期である現在、上記のようなプロライフの言葉は恣意的な誇張であり、事実を歪曲しているとさえ言えるのではないでしょうか。