リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

中絶と人口政策の古今東西(林玲子)

第70回日本人口学会 第2日 2018年6月3日(日) 企画セッション⑦ 2507 教室 堕胎と嬰児殺しの人口学

中絶と人口政策の古今東西
Abortion control and population policy now and then in the East and West
林玲子(国立社会保障・人口問題研究所)
Reiko Hayashi (National Institute of Population and Social Security Research)
hayashi-reiko@ipss.go.jp
人の命は受胎から始まり、中絶はすなわち殺人であり、安全な中絶(safe abortion)というものはありえない、というのが、国連にオブザーバーとして参加するローマ法王庁の立場であり、カイロ国際人口開発行動計画の実行は、米国が 2001 年から 2009 年まで共和党政権であったことと結びついて、大きく遅れを取ることとなった。キリスト教が中絶を殺人とみなしたのは、在位 1585-90 年のローマ教皇シクストゥス 5 世以来であり、キリスト教の 2000年の歴史のなかでは新しい。とはいえ、フランスでは 1791 年刑法より、ビクトリア女王時代の英国で 1861 年に、米国で 1870 年代に、中絶を禁止する法律が制定され、欧米、すなわちキリスト教圏では中絶禁止が一般的であった。そしてそこからの「解放」が、人権、とりわけ女性の決定権の確保という形を取り、強く求められるようになった。またその流れは 20世紀後半以来の国際社会を形作ったのである。

国連人口部がとりまとめた世界各国の中絶政策一覧(UN 2013)では、中絶が法的に可能となる条件を、母親の命を守るため、母親の健康のため、母親の精神衛生のため、強姦・近親相姦の際、胎児の先天異常のため、経済・社会的状況、随時(on request)、に分けて国別に示している。そのうち、母親の命を守るためでも中絶を認めていない国はバチカン市国、マルタ、ドミニカ共和国エルサルバドルニカラグア、チリの 6 ヶ国で、いずれもカトリックの影響が強い国であるが、強姦・近親相姦による妊娠に対しても中絶を認めない国は 96ヶ国にのぼり、世界全域にひろがっているが、とりわけ中南米、アフリカ、イスラーム圏に多い。逆に、随時(on request)可能なのは 58 ヶ国で、日本を除く東アジア、欧米、中央アジアコーカサス諸国、キューバなどの社会主義国などに多いが、トルコ、チュニジア南アフリカ共和国なども含まれる。イスラームではハディースにより受胎後 4 カ月後に胎児は人間となるとされているので、それ以前の中絶については宗教的には許容されているが、宗教以外の各国の事情・慣習により、法制は異なっている。サブサハラアフリカでは宗教というよりは民族など固有の伝統が中絶禁忌の文化を生んでいる。社会主義国ルーマニアチャウシェスク政権時に中絶を禁止した例外はあるが、ソ連で 1919 年いちはやく中絶を容認する法制を敷いたように、共産圏、社会主義国では中絶を当たり前とみなす文化、法制が広がる。ベトナム、東アジアにおいても、中絶を罪とするような宗教的規範はキリスト教圏よりも希薄であり、その結果、多くの国が「随時中絶」も含めすべての条件において中絶可能となっている。日本は原則禁止であるが多くの条件で可能、しかし胎児の先天異常、随時中絶は許していない、というように国連に報告されているが、基本的に東アジア的であり、文化的にもキリスト教圏に比べスティグマが少ない、という状況がある。

日本における歴史的推移をみれば、堕胎と嬰児殺しに関しては、古来から江戸時代に至るまで「法律もなく道徳的にもさして非難せられなかった」(小泉 1934)。江戸時代には、例えば 1680 年には堕胎罪を独立罪として取り扱い処罰する「女医の堕胎及び妊婦を罰するの町触」が出され、また各藩の取り締まりがあったにせよ、それは逆に堕胎と嬰児殺しが広く行われていたことを示すものであったともいえよう。嬰児殺しに関しては、積極的な出生児の殺害から、消極的なネグリジャンス、現代的に言えば育児放棄による高い死亡率まで幅があり、明確に線を引くのは難しく、またその数も間接的な推計でしか求めることができず(Drixler 2013)、確定的でもない。

明治時代に入って 1882 年に施行された旧刑法には「堕胎罪」が盛り込まれ、さらに人口政策が登場する 1920 年代からは堕胎・中絶・避妊はタブー視されるようになった。このタブーは、例えば 1927 年に設立された人口食糧問題調査会の答申審議過程において、「避妊,妊娠中絶及び優生手術を認容する法規を定むること」という提案が却下されていることなどに表れている(林 2017)。また、このような食糧不足と人口問題のかかわりの中で、避妊・中絶さらには女性の健康という視点が欠けていたことは、欧米においても同様であった(Bashford 2014)。

戦後の混乱期、つまり多くの保守系政治家が公職追放されたなか短期間成立した社会党政権下(1947 年 5 月 24 日から 1948 年 10 月 14 日)に優生保護法が提出・可決・施行され、さらにその後 1952 年の改正により経済的な理由による中絶が容認され、中絶数は爆発的に増加し、出生率を大いに下げた。しかし女性の健康を考えれば中絶が望ましいわけではなく、家族計画の普及が図られた。

このような流れを見ると、出生のコントロールは、日本においても嬰児殺し、堕胎/中絶、避妊/家族計画という形で進化してきたといえる。また基本的に東アジアの中絶寛容の文化の上に、近代化で欧米文化を取り入れ、戦後に至る、というある意味でねじれた状況がある。

「東アジアの中絶寛容の文化」のうち日本に関しては法的に多くの触書があるにも関わらず、道徳的な規制、つまり欧米のような宗教(キリスト教)の縛りがなかった、ということになるだろうか。個人の選択、生命に対して影響を及ぼすキリスト教の規範からの離反が近代化でありまた共産主義社会主義の歴史であったとすると、そもそもキリスト教規範の影響下でない世界の多くの地域は、中絶に寛容、ということになる。

しかしそれでは、キリスト教規範は、「受胎から人格を持つ」という生命のありかたの倫理のために中絶を禁止する道徳を社会に植え付けたのであろうか。ローマ教皇シクストゥス 5 世の統治下から 17 世紀にかけて、ジョン・グラントの政治算術に始まる人口論、リッチョーリの世界人口推計など、人口に関する認識が形成された。キリスト教において人口総数をコントロールするための「装置」として教義が形成されたという可能性はないのだろうか。

参照文献
Bashford, Alison (2014) Global population : history, geopolitics, and life on earth, Columbia studies in international and global history, Columbia University Press.
Drixler, Fabian (2013) MABIKI - Infancicide and population growth in Eastern Japan, 1660-1950, University of California Press.
United Nations Population Division, Department of Economic and Social Affairs (2013) World Abortion Policies 2013
小泉英一 (1934)『堕胎罪研究』厳松堂書店.
林玲子 (2017) 「人口動向の認識と対応-出生について(戦前期)」『人口問題研』73-4, pp.270~282.

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