リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

政府もメディアもリプロダクティブ・ライツの根本が分かっていない

「産む支援」だけでは少子化は終わらない

2020年5月30日付の朝日新聞の記事「希望出生率1.8、強気の目標 少子化大綱、実効性カギ」の冒頭を紹介する。

 2025年までの少子化対策の指針となる政府の「少子化社会対策大綱」が29日、閣議決定された。子どもがほしい人の希望がかなった場合に見込める出生率「希望出生率1・8」の実現という安倍政権が掲げる目標も初めて明記したが、これまでも大綱の数値目標は未達のものが多い。経済や雇用の不安から結婚や出産をためらう若い世代に実効性のある支援が届くかは不透明だ。


出産・子育てへの経済支援を重視
 見直しは15年以来5年ぶり。新大綱では19年の出生数が推計で過去最少の86万4千人だったことから「86万(人)ショック」と表現。「少子化という国民共通の困難に真正面から立ち向かう時期に来ている」と危機感を強く打ち出した。


 過去の大綱に比べ、出産や子育てへの経済的な支援に多く触れ、高額な不妊治療は保険適用の拡大を検討すると明記した。パブリックコメントの約4割が不妊治療に関する内容だったため、一歩踏み込んだ。また、子ども1人あたり月1万~1万5千円を配る児童手当も、支給額の引き上げや対象の拡大を念頭に検討するとした。


 新型コロナウイルスの感染拡大によって子育て環境の整備の重要性が浮き彫りになったことから、電話やオンラインを活用した保健指導への取り組みや、収束後もテレワークを始めとした柔軟な働き方を推進することも盛り込んだ。


これまでもさんざん言ってきた「出産」「子育て」「不妊治療」の支援だけでは「少子化」は止まらず、出生率も改善しないということを、未だに学習していないとは頭が痛い。


今の科学をもってしても、「産める」のは女性だけである。少子化脱却のためには「女性」が生きやすく産みやすい社会を作ることが肝要である。そのために、今の日本にまず必要なのは「女性差別」と「女性に対する暴力」を徹底的になくすことであり、女性のリプロダクティブ・ライツをまっこうから否定し、女性たちを苦しめる根源になっている刑法堕胎罪と母体保護法の廃止など、抜本的な法の見直しを進めることだ。


そこから先は、多かれ少なかれ、世界各地で示されてきた女性差別撤廃の道のりを辿っていけばいい。日本がすでに採択している北京宣言及び行動綱領や女性差別撤廃条約で示されている道筋に沿った重層的な改革を行っていくのだ――政策に女性の声を反映させるためにクオータ制などのポジティブ・アクションを実施し、ワーク・ライフ・バランスを取りやすい職場環境の整備(男性の働き方改革も含む)を進めるなどの努力はもちろんだ。だが、それ以上に、何よりも「産む」主体である「女性」を本気で尊重する必要がある。「産ませる」ことしか考えていない政策では、女性たちにそっぽを向かれるばかりだろう。


今回の「支援拡大」にも見られるとおり、日本政府の「リプロダクティブ・ライツの保障」は女性自身に決定権を決して与えようとはせず、「産む」方向に誘導しようとするものばかりだ。リプロダクティブ・ライツの根幹は、「産む選択」も「産まない選択」も女性自身に委ねることである。なぜ日本は「産まない選択」を権利として認めようとしないのか?


それが「無理」なのは、日本では「中絶は犯罪」とされているためだ。犯罪を権利として擁護できるはずはない。しかし実際には、日本では「ほぼ自由に」と表現されるほど、合法的な中絶が大量に行われている。ただし、それは母体保護法で「違法性を阻却」されている場合に限られる。では、日本では「母体保護法で違法性阻却される範囲において中絶の権利を認める」と言えるだろうか? 「違法性を阻却」しているのは国家であり、国家によって制限される「人権」というのは、かなり問題がありそうだ。おそらくそこらへんを法学者が本気で議論し始めれば、普遍的人権であるリプロダクティブ・ライツに制限をかけてはならないし、そもそも女性のみが裁かれる自己堕胎を法で定めていること自体が女性差別だという結果になるだろう。少なくとも、世界の議論はそこに落ち着いてきた。


だから日本政府はそうした議論自体をしたがらず、女性差別撤廃委員会に何を言われようとも知らん顔を決め込んできた。中絶の権利について認めるかどうかは宗教的・文化的理由がある国については、それぞれの国に裁量権があるとして、事実上、中絶権の保障に関する国の義務が免除されてきたのを利用しているわけだ。そして、日本以外にそうした「免除」を受けている国々とは、中東を中心としたイスラム圏の国々や女性差別が甚だしいアフリカなどの最貧国がずらりと並んでいる。厳格なキリスト教国のアイルランドは一昨年に「女性の権利としての合法的中絶」が解禁され、かつては日本以上に女性差別が酷いと言われていた韓国も、昨年ついに堕胎罪に違憲判決が下された。


当然だ。自分の意識に反して妊娠してしまうことのある身体を生きている女性たちが、意に反する人生を「第三者に強制」されえない「主体」として生きていくためには、避妊や中絶は必須の医療だからである。逆に言えば、避妊や中絶が安全かつ確実に行える医療が発展した現代だからこそ、女性たちはそうした医療は「自分の裁量で用いるべきもの」だと考えられるようになった。第三者の意図で(妊娠・出産に誘導したい誰かの思惑で)制限されるのは人権侵害だと主張するようになったのは、主張できるようになったからである。


女性たちに、妊娠に関する自己決定と、安全な中絶手段を与えない国、女性たちに中絶の権利を認めていない国は「甚だしい女性差別のある国」なのである。


でもそれはおかしい。日本は女性差別撤廃条約を締結した国ではないか。条約締結国は、条約の理念に即して国内法を変更する義務があるではないか。そして再三、日本は女性差別撤廃委員会から刑法堕胎罪と母体保護法を見直すつもりはないのかと問われてきたということを、いったいどれだけの人が知っているだろう。


女の権利ばかり言うけど、胎児の権利はどうなのだ? 受精の瞬間から命ではないのか?……などと、反論してくる人もいるだろう。しかし、そうした議論は世界では20世紀の半ばから後半にかけてとてつもない規模で行われてきた。日本人よりよっぽど宗教心の篤い国々の人々が、学者が、宗教家が、アクティビストが、激論を交わしてきた。その結果、グローバル規模で築き上げられた合意事項が、女性のリプロダクティブ・ライツなのだ。


だから、大論争になろうとも、わたしは何も恐れない。感情論や根拠のない持論にこだわる少数の人々は別にして、きちんと議論を積み上げていけば、「産む性」を人間として「産まない性」と等しく扱うことを決意するなら、社会的には中絶の権利は与えるべきもの、与えざるをえないものだという結論に落ち着くしかないのだから。


それを認めた時点で、初めて本当の意味での「女たち自身にとって産みやすい社会」に向けての大変革が始まるのではないか。女自身が産みやすいと感じる国は、希望出生率が実現される国であり、おそらく希望出生率そのものが上昇していく国になるだろう。


リプロダクティブ・ライツの根本は、「産む選択」も「産まない選択(安全な中絶)」も等しく保障された上で、「産む産まないは女が決める」ことにある。なぜなら女は「産む機械」ではなく、それぞれに自分の人生を生きている「人間」なのだから。「中絶する女性」と「出産する女性」は別々に存在しているわけではなく、同じ一人の女性が自分の人生過程のどこかで中絶を選んだり、出産を選んだりしているだけなのだ。女性たちを信じ、女性たちが生きやすい社会を整備し、その上で女性たちに「選ばせる」ことで、出生率はプラスに転じる。そこが分かっていない「少子化対策」は失敗する運命にある。