リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

「優生保護法」改定阻止運動 ③

阻止連の誕生など歴史的事実に関する記述

偶然、ネットで検索していてみつけました。

現代宗教と女性(26) おやさと研究所
天理ジェンダー・女性学研究室
金子 珠理 Juri Kaneko
Grocal Tenri
Vol.21 No.3 March 2020
9頁

とても興味深い内容なので、本文をコピペさせていただきます。
引用なさる時は下部にリンクを貼ってある元原稿からお願いします。

 2019 年 11 月末、1980 年代に内閣総理大臣を務めた(1982
~ 1987 年)中曽根康弘氏が 101 歳で亡くなった。最後の昭和
の証人とも言うべき中曽根氏の手記「二十三歳で三千人の総指
揮官」(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送、1978 年所
収)には、海軍主計中尉であった氏による「慰安所」に関連す
る記述がある。これについて氏は、従軍慰安婦が詰める「慰安所
ではないと否定しているが(2007 年3月 23 日、日本外国特派
員協会)、2013 年3月8日の衆議院予算委員会で示された防衛
省の資料「海軍航空基地第二設営班資料」(防衛研修所戦史室)
との整合性をめぐっては、不明確な点もあり、生前に真実を明
らかにしてほしかったところである。
 さて、中曽根氏は、同時期の米国大統領ロナルド・レーガン
(1981 ~ 1989 年)との「ロン・ヤス」関係の下で、日米の関
係強化を構築したと言われるが、日米両国は、プロファミリー
政策という点でも共通点があったことは、本誌(2019 年9月号)
で述べた通りである。日本では、政治における急速な保守化が
みられた時代であった。
 このような 1980 年代に学生生活を送っていた筆者自身は、
1970 年代のリブに乗り遅れた世代として、初めてこの時期に
フェミニズムの洗礼を受けることになる。男女雇用機会均等法
(施行前年に学部を卒業したため恩恵には与れず)、山のように
出版されたフェミニズム関連書籍、自治体等によるフェミニズ
ム講座の隆盛、新聞紙上におけるアグネス論争等々。その中で
振り返ってみれば、もっとも印象に残っているのが、1980 年
代における「優生保護法」改定阻止運動であった。女性の「か
らだ」に直接かかわる事項が、当事者である女性の頭上で、政
治や宗教によって決定されかねないこと、そもそも女性自身が
自分の「からだ」に対する知識を十分に持ちあわせていないこ
とに対し、愕然としたのである。1980 年代には折しも、富士
産婦人科病院事件(埼玉県所沢市)も起きている。
 その時分、フェミニズムは学問とみなされておらず、したがっ
て大学の図書館には筆者の関心に応えるような資料は少なく、
飯田橋駅直結のビルの上層階にあった東京都婦人情報センター
(表参道の現東京ウィメンズプラザにその後移転)にしばしば
通ったものである。インターネットのなかった当時は、各種集
会への参加の他には、ミニコミ誌、チラシ、パンフレットを通
してでしか、本当に欲しい、知りたい情報を得る方法がなかっ
た。

阻止連の結成とその意義

 「胎児の生命尊重」をレトリックに用いた、1980 年代の改定
の動きに対して、すぐさま様々な方面から反対運動が起こった。
1982 年7月、「優生保護法改悪=憲法改悪と闘う女たちの会(イ
コールの会)」と「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす
女たちの会」による抗議集会が開かれ、同年8月には「ʼ82 優
生保護法改悪阻止連絡会」(略称 : 阻止連。現在は、「SOSHIREN
女(わたし)のからだから」と改称)が結成される。阻止連の性格は、
1970 年代のリブ運動を受け継ぐものであると、荻野美穂は指
摘している。阻止連の設立趣意書には、優生保護法の問題が、
次のように端的に述べられている。
 「明治初年に堕胎禁止令が出されて以来、妊娠・出産は私た
ちの意志を越えて、国家の管理するところのものとなりました。
天皇制国家の富国強兵政策・軍国主義を支えるため、明治十三
年に設けられた刑法堕胎罪、そして敗戦後、戦後の混乱を解消
するため堕胎罪を存続したまま条件つきで中絶を許可した優生
保護法―この二つによって女性はときに産まされ、ときに堕
させられてきたのです。さらに優生保護法とは、第二次世界大
戦中、ナチス断種法をまねて作られた『国民優生法』を基にし
たもので、その目的というのは『劣勢な遺伝』を抹殺し、国家
にとって都合のよい人間のみを作ろうとするものです。」
 このことから分かるように、阻止連の目指すところは、優生
保護法の改定阻止のみならず、刑法堕胎罪および優生保護法
のものの撤廃であった。「当面の経済条項の削除に反対するだ
けでなく、70 年代における障害者運動との連携を通して、同
法が障害者に対して差別的であるばかりでなく、『生まれて良
い子』と『良くない子』のふるい分けのために女のからだを利
用しようとするものであるという認識」が共有され、その後、
全国各地に阻止連の支部や参加団体が広まっていくこととな
る。

改定阻止運動の広がり

 さらに、リブ系以外の、中には保守的・体制的とも思えるよ
うな団体を含む、多様な女性団体によっても反対運動が展開さ
れていく。日本婦人有権者同盟、大学婦人協会、日本キリスト
教婦人矯風会、婦人国際平和自由連盟日本支部、全国地域婦人
団体連絡協議会、東京キリスト教女子青年会日本看護協会
主婦連合会(主婦連)、全国友の会、家庭科の男女共修をすす
める会、日本婦人団体連合会新日本婦人の会、日本母親大会
連絡会、婦人民主クラブ、日本生活協同組合連合会等々、宗教
イデオロギーを超えた問題として、女性たちに共有されて
いった。
 こうした広範囲の女性たち結集の背景として、荻野は、1980
年代の急速な政治の右傾化への危機感を挙げ、日本婦人団体連
合会会長、櫛田ふきの以下の言葉を引用している。
 「優生保護法改悪の中心になっている人たちは、一方で軍拡
憲法改悪の熱心な推進者である。『生命尊重』といいながら、
同時に人間の生命を大量に虐殺する軍備を増強せよと主張する
人たちに、私たちはかつて、『産めよふやせよ』と侵略戦争
かりたてた人たちの姿を思い出す」(婦人協同法律事務所編著
『いまなぜ優生保護法改悪か』労働教育センター、1983 年)。
 そうした中、専門家集団である、日本母性保護医協会、日本
家族計画連盟と同協会、日本助産婦会、日本産婦人科学会など
からも反対表明が出され、ついには強い政治的発言力をもつと
される日本医師会も反対の立場をとるに至った。これらの広範
囲にわたる団体からの阻止運動を受け、1983 年3月末、改定
案の国会提出は見送られることとなったのである。

[参考文献]
荻野美穂『女のからだ』岩波新書、2014 年。

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