リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

橋本治『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』から抜き書き

”当たり前”の加害と被害の不条理

2020-03-20から1日間の記事一覧 - リプロな日記ー産む/産まないの選択と決断、妊娠、中絶、流産…を超えて

 上記の抜き書きで孫引きしていた本を確かめてみた。他の部分も少し抜き書きしてみる。

 セクハラという事例の不思議なところは、やる方にその自覚はなくて、やられる方だけが「セクハラだ」と感じるところである。やる側は、「男性優位=自分優位」が当たり前になってしまっているから、その対象となった相手が「被害」を訴えるということが想像出来ないその行為を成り立たせる一方が「自分の優位性」を当然の前提にしてしまっているから、「被害」を受けてしまった側は、そう簡単に「被害」から抜け出せないし、立ちあがることも出来にくい。どうしてかと言えば、痴漢やセクハラの類いは、「前は俺の下に立つ劣等者だ。おとなしくしていろ」ということを不本意にも押し付けられることであって、押し付けられる側は、「なんだって私はこんな理不尽なことを突きつけられるのだろうか? 私になにか問題でもあるのだろうか?」と考えてしまいがちになり、そうそう簡単に不条理から抜け出せないし、自分が不条理状態の中にいることに気がつけない。なぜならば、それが「不条理」というものだからだ。
 する側に自覚のない行為は、される側だけに不条理と一方的に引き受けさせてしまう。セクハラが従来の性犯罪と一線を画すのはここのところで、問われるのは、行為の犯罪性や暴力性ではなくて、「当たり前」の中に眠っている「バイアスのかかったいびつな優位性」なのだ。
「今や、”当たり前”が問い直される」と言ってもいいが、セクハラがそうであるように、「当たり前」を前提にして生きている人たちは、「この自然な”当たり前”のなにが問題なんだ_」としか考えないから、「みんなで問い返す」などということは怒らない。「問題だ!」と言う人と、「なにか?」と思う人がただ混在して、「”当たり前”が大問題になる」という混沌状態が生まれる。
(pp.95-96)

我々は、自分たちが「当たり前」と思っている状況になかなかメスを入れられない。なぜかと言えば、我々がその「当たり前」を前提にし、依存して生きているからだ。「当たり前にメスを入れられない」ということが、「当たり前」を抑圧的な加害者に変えてしまう。
(p.112)

「女の論理」とか「女の抑圧」についてもちょっと見るべきものがあるかと思ったが、よく読んで考えたら、あまり新しいことは言っていなかったので、パスすることにした。

もちろんここで私が考えているのは、「中絶は悪である」とする「当たり前」とされる言説の不条理、抑圧性に、どのようにメスを入れていくかということだが、それは今後の宿題にしておこう。