リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

昨日、Facebookに書いたこと

レベッカ・ソルニットの本を読んで考えたこと

コピペする。

久々の読書。レベッカ・ソルニットの『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い(原題はThe Mother of All Questions)』と『説教したがる男たち(Men Explain Things to Me)』を一気読みしていて……後者の最後の方で、次の下りが出てきたところでハッと我に返った。

ベティ・フリーダンの「名前を持たない苦しみ」に立ち返れば、いまの世界と彼女の生きた世界が本質的に異なっていることに気づくだろう。女性の権利も発言する力も、いまよりずっと少なかった世界だ。あの頃は、女性も平等であるべきだと主張するのは少数派だった。いまの主張は、私たちがこの世界において少数派であるべきではない、というもので、法律はおおむね私たちに味方してくれている。

(ポストロー時代のアメリカの中絶事情が激変したことは置いておくにしても、)果たして「いまの日本の女性」はフリーダンの時代とは全く異なるように感じられるだろうか。そもそも日本の「法律」は、「おおむね」女性の味方にはなってくれていないままである。


雇用均等法やDV防止法はないよりはマシかもしれないけれど、刑法の強制性交等罪にはいまだに暴行・脅迫要件があるし、同意年齢も13歳のまま、堕胎罪も手つかずだし、母体保護法の配偶者同意要件があるばかりか、実際、先日のNHKの調査によると、この法の要件以上に厳しく「同意」を取りつけている医師もまだけっこういるではないか……。


続く章では、アラビアンナイトのランプから飛び出した魔人や、パンドラの神話の甕(かめ)または箱から解き放たれたものがもとには戻らないというたとえを使って、私たちはもはや「無知の状態には決して戻らない」「もう後戻りはできない」とソルニットは宣言している。そこで再び持ち出されるのが、何とロー対ウェイド判決である。

最高裁は中絶を合法化した……女性が身体に対して持つプライバシー権を認め、それにより中絶を禁じることができなくなった。それによって女性が得た性と生殖に関する権利を撤廃することはできても、女性には不可譲の権利があるという考えそのものをなくすことはできないだろう。

さらにソルニットは「甕や箱の中に戻らないものとは、思想だ」と語る。「保守派がよくやるように、一般教書演説で性と生殖に関する権利のくだりを削ることはできても、身体をコントロールする権利を持つべきでないと、大部分の女性に納得させることなどできないだろう。」


ここが日本とは大きく異なるところではないか。日本ではまだ「自分の身体を自分でコントロールできる権利がある」という考え方が嘆かわしいほど普及してはいない。だから、刑法堕胎罪や母体保護法の配偶者同意要件が問題だといくら叫んでも、大部分の人々に「納得」してもらえないのだ。


一方で、ソルニットがDVについて述べているように、「夫には妻を殴る権利があるし、そうするかどうかは個人的な問題だ、なんていう考え方が近い将来戻ってくるようなことはないだろう」というのは、日本にも当てはまりそうだ。


文化によって社会によって課題ごとの歩みの速さや抵抗の強さに違いがあるのは当然なのだから、彼我の違いに悶々とすることはないのだろう。
共通部分に目を向けよう。


「革命とは何よりもまず、思想に基づくものなのだ。」知識は力なり。放たれてしまった知識がランプの中に戻ることはない。これは間違いない。無知蒙昧の時代に戻るはずはない。戻してはならないのだ。


ソルニットの本からは離れるが、1993年のウィーン人権宣言の中に「女性の権利は人権である」という有名な文言が書き込まれた時、著名な日本のフェミニスト法学者でさえも、これをどう解釈すべきかにわかには説明できなかった。だけど、今の私たちには「女性(のからだを持つ人間)だけの権利」の少なくとも一つは、リプロダクションの権利だということが自明である。21世紀になって、国連の人権規約(社会権規約、人権規約)には、「女性と少女の中絶の権利」が明示的に書き込まれたという事実がそれを裏付けている。


あとはこの「知識」を広めていくだけだ。さて、次の仕事をせねば。読書はまたしばらくお預けになりそうだ。